どうして天才がいなくなったのか

 朝、目が覚めてすぐ寝床から出る時としばらく考え事をする時がある。私は若くはないから深淵なことも新しいことも考える力は減衰している。

 しかしそれでも朝は脳が自分の中では冴えている。日頃考えないようなことや、ユニークな考えが浮ぶこともある。

 朝は目やその他体が睡眠の後、再活性して機能が充実しているようだ。しなくてはならないことをふと思い出すし、どうしても考え付かなかったことも解決の方法を思い付くこともある。

 そういう意味で朝の数十分はとても自分に取っても大切なことだ。勿論誰にでもそうだろう。

 それはどうしてだろうか。体が休まったことだけが理由だろうか。私にはそうは思えない。まだ生活活動をしていないということで脳が雑事について考えないで、それ以外のことに脳が集中して使われるのではないか。そのようにも考えられる。

 最近は覚えなければならないことが多すぎる。日本の複雑な税制、病院の予約、スケデュール、他人との関わり合い、駅までの道のり、生活費の予算繰り、美味しいレストランの場所、名前。数えたらきりがない。

 記憶をし、雑事を考えることにも脳は働く。ヨーロッパの中世の裕福な人の子供はどうしていただろうか。何も考えずに一つのことに集中することができたはずだ。

 あるいは結婚した学者で金の管理や生活のことを全部考えてくれる妻がいる。自分が研究したいことに対する資金も妻がどこかから持ってくる。自分がやりたいこと以外には頭を使わない状況が出現すれば頭の優れた人はもっと素晴らしいことを成し得るのではないか。

 脳の容積はどのくらいか。それを動かす機能はどうか。全て有限であれば一つのことにのみ脳を使えば、当然脳はその一つのことを深く考えるだろう。今はもうメディチ家はない。学者といえども研究費を獲得する努力をしなければならない。

 そんな状態では脳は物事を深く、広く、ユニークに働かせることは無理なのではないだろうか。

 今昔ほどの天才はいない。いるかも知れないが能力を存分に発揮できる状態にないのではないか。

 雑事は何も考えずに研究に没頭しても誰もが天才的な研究を成し遂げるとは限らないが、もし天分がある人がいるとすれば金のことや生活の雑事から解放されて研究だけに脳を使いたいだろう。

 メディチ家で寄食をした天才たちは大勢いた。その天才たちは天分を生かして芸術を創造し、学問を遂行していた。

 そんな制度は今ない。アメリカでも研究費の予算を獲得するために研究者が雑事に追われるだろう。そこからは天才的な成果が生れないのではないか。

 研究に要する費用は国家予算の中の微々たる割合を占めるにすぎない。もし日本でもアメリカでも有望な天分を持った人を何不自由なく研究や芸術に邁進する制度を作ってやったらいかかだろう。

 今やノーベル賞のレベルも昔と比べると極めて低い。もう研究するアイテムがないと主張する人たちもいるが、そんなことはない。

 人の脳はどのように作用しているのか。誰も分かっていない。これが分かれば病気は治癒できるし、悪事を働く脳の作用を止めることもできるように思える。

 人同士が親切にして富める者は貧しい人に施しを行い、それこそイスラムの教えを実現する精神を構築することができるかも知れない。

 それとも人という動物は進化という退化をしたのだろうか。脳は考えたり想像したりすくことを止め、全て記憶という脳の作用の一部だけを使うだけになってしまったのだろうか。

 私はそうは思わない。人は将来もっともっとテレパシー能力を開拓し、言語がなくても人同士会話ができる種に進化していくようになると信じている。

 馬鹿らしい政治家、官僚、組織の長に決定されることを少しは失くして本当に優秀な人がリードする社会が実現すれば天才はきっと出て来る。

酒巻 修平

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