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己を摘み取ること

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今日の言葉

二宮翁夜話より引用

94〕己を去れば一円観
翁のことばに、心が狭く局限されると、真の道理を見ることができぬものだ。世界は広い。だから心は広く持たねばならぬ。広い世界も、己といい、我という私物を一つ中に置いて見るというと、世界の道理はその己に隔てられて、見るところがみんな半分になってしまうのだ。己というもので半分を見るときは、借りたものは返さぬほうが都合がよく、人のものを盗むのは最も都合がよかろうが、この隔てとなっている己というものを取り捨てて、広く見るときは、借りたものは返さねばならぬという道理がはっきり見え、盗むということは悪事であることもはっきりわかるのだ。それゆえ、この己という私物を取り捨てる工夫が肝心だ。儒教も仏教も、この取り捨てかたを教えるのを専一としている。論語(顔淵篇)に「己に克って礼にれ復れ』と教えたのも、仏教で見性といい、悟道といい、転迷というのも、みんな、この私を取り捨てる修行なのだ。この私という一物を取り捨てたならば、万物不生不滅・不増不減の道理も、明らかに見えるのだ。  このように明白な世界なのだが、この己を中間に置いてあちらとこちらを隔てるというと、即座に得失・損益・増減・生滅など、種々無量の境界が現出するのだから、恐ろしいものだ。しかし、これまた是非もない次第だというのは、豆の草になるときは豆の実を見ることができず、豆の実になるときは豆の草はできない世界であるために、万物の霊長たる人間でも、半円観にとらわれることを免れがたいのだ。この免れがたいのを免れるのを悟りといい、免れないのを迷いというのだ。私が戯れによんだ歌に、「穀物の夫食となるも味も香も草よりいでて草になるまで」「百草の根も葉も枝も花も実も種よりいでて種になるまで」。ちょっとこの道理を見たわけだ。ハハハハハ。
【引用 二宮翁夜話(上) 福住正兄:原著 佐々井典比古:訳注】

己を摘み取ること

最近、自分勝手な人達が増えているように思う。

しかも、自分が社会の中で自分勝手を振る舞っているという認識もなく、自分は正しいという価値観だけで世界を見ているから、自分勝手な行動を指摘されると、すぐにキレて相手を攻撃しようとする。

自分勝手とは二宮金次郎の言うところ己となる。

己の状態では、心が狭くなり狭い世界で生きていくことになり、それでも改心しないでいると、更に心も世界も狭くなる。

最後は、孤立化して自分すらも見失っていく。

金次郎は心に己があると「即座に得失・損益・増減・生滅など、種々無量の境界が現出するのだから、恐ろしいものだ」と語っています。

陰陽の法則では、自己を強くすれば、他者も強くなり、もめ事や争い事が絶えない人生となります。

己とは、心の雑草のようなものです。放置しておくと、心の中で大きく育っていきます。

だからこそ、心の中で己が出てきたら、小さいうちから摘み取る工夫が肝心なのです。

二宮金次郎を夜話94段「己を去れば一円観」を読んで、そんなことを感じました。

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