昭和歌謡

 テレビでは時々昭和歌謡あるいは懐かしのメロディという名の番組が登場する。ではどうして平成歌謡という番組がないのだろうか。

 原因はいくつかあるだろうが、一つにはメロディの質が落ちたことだろう。何故落ちたのか。弦哲也を初め歌謡曲の作曲家の多くが元になるメロディをコンピューターで少し変更して新しい曲として発表しているからだ。

 弦は「天城越え」などを作曲した歴史上一流とは言えないまでもその次くらいにはランクされる作曲家である。それが作曲に行き詰ったか、それとも曲を量産しなければならなかったか、はたまた金儲けのためか、コンピューターによる作曲に変えた。

 コンピューターは万能と思われがちだが、決してそうではない。コンピューターで制作した作品は人が頭で考えたものに比較して質が非常に低い。

 それはそうだ。元の曲があり、それに和音を合わせて別の曲を作るに際し、人の頭が介在する。そこに全体として曲の質の低下が発生するのだ。

 それは何も弦に限ったことではない。最近ある人の友人の作曲家の話しを聞いたところ、作曲とはコンピューターで行うものだとその友人は「作曲」の定義としたらしい。

 このコンピューター作曲は多分小室哲哉辺りが初めて行ったと思われる。当時はバブル経済の真っただ中で、テレビで歌われる曲も絶えず新しいものが欲しいと願っていた人が多かったのだろう。

 小室はこの手法で大金を稼ぎ、他の作曲家もそれに見習った結果が現在の状況だ。人の頭で作った曲の最後は「アジアの純真」のころだろう。

 これからどうなっていくのだろうか。歌手は長く印象に残る歌を歌わせてもらえず、だから商売として歌を披露している大道芸人の質の域を出ない。

 たいして歌唱力もなく、美人でもない普通の女性が普通のレベルで歌う曲には何の芸術性もない。曲は一小節聞くと後の部分はほぼ歌えるレベルだ。

 そう言えば今の流行歌手の音程は狂うことが多い。氷川きよしの歌を聞くとあまりに音程が狂うので吐き気がする。彼のファンには申し訳ないが、それが真実だ。

 彼だけではない。他の新人の歌手のほとんども音程を狂わす。しかし不思議なことに最近彼らの音程は大して狂わなくなった。何故かは見当も付かない。

 そう言えばコンピューター作曲が始まったのは、日本でバブルがはじけた平成になってからである。人は精神に余裕がなく、質の高い物ではなく、安い物を求めた結果、質の低い曲と歌手が誕生したのだろう。

 質の高い物を作るにはそれなりの時間と精神、それに資金が必要なのだろう。

 私は時代劇ファンだ。筋は荒唐無稽であるのは分かって見ている。時代劇はほとんどが江戸時代を念頭に置いて作られたものだ。

 時代を反映して女性や高位の男性着物のデザイン。使われている言葉、建物や器具備品のデザインの高さ。そんなものだけでも見る価値がある。

 日本家屋は至便さを忘れればデザインとしては世界の最高峰に位置すると思う。部屋の窓はほとんどが四角ではない。丸や独創性のある形だし、障子の桟の数は必ず奇数だ。

 世界のどこを探しても家屋に匂いと音を取り入れたものはない。日本では匂いは玄関で焚かれていたであろう香や畳の材料の藺草から発する。音は鹿威しが奏でる。

 西洋にも音はあったであろう。時計がそうだが、だが時計は音を聞くためではなく、音は副次的なものだ。

 直線はほぼ芸術的ではない。人工的な匂いがプンプンしていて嫌だ。現に自然には直線はほとんどない。

 バッハが創唱したという平均律も何だか直線的だ。日本の自然音階の方が聞いていて疲れない。

 日本の伝統芸術、芸能はどこに行ったのであろうか。明治が始まって徳川を倒して天下を取った薩長土肥が西洋の文物を過剰に珍重して、日本の良いものを全て捨ててしまった。文学でも夏目漱石や二葉亭四迷は西洋にかぶれ、新しい文学として西洋のイミテーション的な文学、文章を創始し、それから日本の芸術は衰退の一途を辿った。

 極め付きはコンピューター作曲である。これで日本の演歌は終了した。それに歯向う人は出て来ないのか。コンピューターは功罪を弁えて使って欲しい。

酒巻 修平

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