断捨離とは何ぞや

 最近流行りの言葉に断捨離というものがある。子供のころを含め過去には聞いた記憶がない。

 若いころは物を捨てる人があまりいなくて、ごみ箱には魚の骨とか残飯が多かった記憶がまだ残っている。

 それほど当時は物が貴重で、自分は下駄を履いていたが、その下駄がすり減ってくるのを悲しく見たものだった。

 だが今やごみ置き場にはごみが山と積まれ、如何に人々が裕福になったか、それがためにどれほど物が粗末に扱われるようになったか、社会の移り変わりを如術に表している。

 だがごみはごみで、不要になったり使えなくなったりしたものである。メーカーはある一定年限が経過すると製品が破損しあるいは何かの原因で使えなくなることを考え生産している。

 一方世界で満足に食べられる人の割合は30%とか60%とか言われている。その人たちは家具どころか食料品も満足に手に入らない。

 断捨離はもっと酷い。不要ではないし、まだ使える物を敢えて捨てる行為だ。捨てる物も元はお金で贖ったものに相違ない。それを捨てる。

 そこにはますます狭くなる住宅事情もあるだろう。もう少し空間が欲しいという要求もある。

 しかしまだ使える物を捨てるという行為はどうしても納得がいかない。そこにはもっと品質の高い物と現存の物を交換するという感覚が元になっているのではなく、どうも自分の人生の整理を考えてのことのような気がする。

 私の今の住居は旧来の住居と比較して1/3くらいの住空間しかない。従って前の住居にはつい合わせて購入した物が存在している。

 しかし捨てるかあるいはリサイクルに出すのは忍びないので、何とか全ての物を持っていきたかった。

 結果一時預かった食器棚を除き、全ての物を小さい空間に運び入れた。中には100年以上前のピアノや旧来の住居の前の持ち主が置いていったグランドファザーズクロックもあり、とても場所を取るものも多かった。

 だが私は捨てるのが嫌いだ。貧乏な少年時代を過ごした人間に取って有用なものを捨てる精神が宿っていない。

 仕方なく、全てを持っていくことにした。置き場所、角度、などあらゆる場所を考慮し、全ての物を持ってきた。

 不思議なことに考えれば考えるほど置き場所が出て来るのだ。あろうことかそれからも大きな家具も何点か買い、それも新しい場所の配置できた。

 そんな作業をしている時には1cmの差で物を置くことができなくなることもしばしばで別の場所は方法を考えると、そこに置くのを断念した方が良かったこともあった。

 終わってからも改良を重ね、今はとても快適な住空間が生れた。コンピューターデスクの回りは手を伸ばすと必要なものが全て瞬時に手にできる。

 ドライバー、ハサミ、爪切り、拡大鏡、薬、領収書、印鑑、USB, 体温計、うちわ、扇子、書類、ティッシュペーパー、白紙、時計、カレンダー、スタンプ、印肉、巻き尺、眼鏡、計算機、コンピューター、プリンター、モニター、コンピューターの分配器、ペットボトル、コップ、バッグ、マスク、カフスボタン、名詞箱、名刺、懐中電灯、各種工具、大きいスピーカー2個、仏像、ヘッドフォン、間仕切り用のアラビック調の布、接着剤、本、・・・。

 全て2メーター以内に配置され、使う頻度に応じて位置を決めた。これは断捨離とは反対側の行為だ。

 断捨離を唱える人はどんな人だろう。もうすることは全てし尽くして、後は死を静かに待つだけの人だろうか。もうすることはないのか。

 私も後期高齢者の年齢をとっくに超えた。だがこれからが人生の本番だと考えている。今までは子育て、遊びの追求のために金を儲けることに専念した。

 金儲けのためにはやりたくない仕事もやった。だがこれからは自分の好きな仕事だけに打ち込める。大きなチャンスだ。

 かつて歌麿は「自分は100歳になればもっと良い仕事ができる」と言った。その心境には至らないがそんなことを目指して精神を整理する積りだ。

 断捨離、反対。

酒巻 修平

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