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運勢は方位やアイテムにあるのでなく、因果応報にある

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今日の言葉

二宮翁夜話より引用

104〕禍福は方位でなく因果応報
翁のことばに、方位で禍福を論じたり、月日で吉凶を説いたりすることが昔からあって、世間ではこれを信じているが、この道理はありえない。禍福吉凶は方位・日月などとは関係のないもので、これを信ずるのは迷いだ。悟道家は「本来東西なし」とさえいうではないか。禍福吉凶というものは、人それぞれの心と行いとが招くところに来る。また過去の因縁によって来る場合もある。ある名僧が強盗にあったときの歌に「前の世の借りを返すか今貸すかいずれ報いはありとしぞ知れ」とよんだとおりだろう。決して迷ってはならない。だいたい盗賊は鬼門からはいるわけではない、悪日ばかりに来るのではない。戸締りを忘れれば賊ははいってくると思え。火の用心を怠れば火災が起るだろう。ためしに戸をあけておいてみるがよい、犬がはいってきて食いものをあさるだろう。これは眼前わかりきった話だ。 古語に「積善の家に余慶あり、積不善の家に余あり」とあるが、これは万古を貫いて動かぬ真理だ。決して疑ってはならない。これを疑うのを迷いという。 米をまいて米がみのり、麦をまいて麦がみのるのは眼前のことで、年々歳々ちがうことはない。それが天理であるからだ。世に不成就日というものがあるが、この日にすることがずいぶん成就する。吉日だからといってしたことが必ずしも成就するわけではない。吉日を選んでした結婚も離縁になることがあるし、日を選ばずに結婚したのに共自髪までゆくのもある。だからこのようなことは決して信じてはならぬ。信ずるべきものは「積善の家余慶あり」の金言だ。けれども、この余慶も余殃も、必ずしもすぐに回ってくるものではない。百日でみのるそばもあり、秋まいて来年の夏みのる麦もある。ことわざに「桃栗三年柿八年」というように、因果にも応報にも遅速があることを忘れてはならない。

【引用 二宮翁夜話(上) 福住正兄:原著 佐々井典比古:訳注】

運勢は方位やアイテムにあるのでなく、因果応報にある

朝のテレビで「今日の運勢」というコーナーがあります。

星座による運の良し悪し、また方角やアイテムによって運勢が変わると言います。

しかし、運勢が幸せや不幸を決定するとは思えません。

例えば、「今日あなたのラッキーアイテムは「カレー」です」とメディアに言われ、カレーを食べたとします。

しかし、その日に大きな幸せが訪れることは少なく、逆に大きな不幸に遭遇することも少なく、1日が終わります。「カレーを食べたから無事に1日を過ごせた」程度の印象しか残りません。

そして、昨日のラッキーアイテムであるカレーの結果を詳細に検討することもなく、次の運勢を見て同じことを繰り返します。何かが変わっているようで、何も変わっていません。

人生は因果応報です。

良い行いをすれば良い結果が、悪い行いをすれば悪い結果が訪れます。

すべては時間をかけてブーメランのように自分に戻ってきます。

日々、悪い行いをしていれば、ラッキーアイテムを持ったところで運勢が変わるとは思えません。

人間としての基本が間違っていれば、運勢も自然と悪い方向に流れます。

これは、二宮金次郎が生きた時代も、私たちが生きている現代も同じです。

占いの結果に基づいて行動を変えるよりも、今日から人として良い行動を続けることで、自然と運勢は変わると思います。

二宮金次郎の夜話104段「禍福は方位でなく因果応報」を読んで、そんなことを感じました。

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