今日の言葉
二宮翁夜話より引用
大道は水、書籍は氷 翁のことばに、大道は、たとえば水のようなもので、よく世の中を潤沢して滞らないものだ。そのような尊い大道も、一旦筆で書いて書物にしてしまうと、もう世の中を潤沢しなくなり、世の中の用に立たなくなる。
たとえば水が凍ったようなもので、もと水には相違ないけれども、少しも潤いにならず、水の用をなさないのだ。そしてまた、書物の注釈というものは、氷につららが下がったようなもの、氷がちょっと解けてまたつららになったようなもので、世の中を潤沢せず、水の用をなさないことは、やはり同様だ。
さて、この氷となった経書を世の中の用に立てるには、胸中の温気をもってよく解かして、もとの水にして用いなければならぬ。さもなければ世の潤沢とはならないで、実に無益のものなのだ。氷を解かすべき温気が胸中になくて、氷のままで用いて水の用をなすものと思うのは、悪の骨頂だ。
世の中に神儒仏の学者があっても世の中の役に立たぬのは、このためだ。よく考えねばならぬ。 それゆえ、わが教では実行を尊ぶ。いったい経文といい経書といい、その「経」という字は、もともと機の縦系のことなのだ。だから縦糸ばかりでは用をなさず、横に日々実行を織りこんで、はじめて織物として役に立つのだ。横に実行を織りこまず、ただの縦糸だけでは役に立たぬことは、いうまでもなく明らかだ。
【引用 二宮翁夜話(上) 福住正兄:原著 佐々井典比古:訳注】
書物は縦糸、行いが横糸
昨日のブログでも触れましたが、真の学びや教えは、自らの行動を経て心に響くものです。
二宮金次郎は、「良い教えも書物に記された瞬間に氷のようなもので、それを溶かすのは読み手の熱量である」と説いています。
さらに、教えを注釈したものは氷の先端につくつららに似ていると述べています。
このブログは二宮金次郎の言葉の注釈の注釈であるため、つららの先端ぐらいなものです。
しかし、何かを学ぶためには、自分なりの解釈を入れて理解し、自分が行動できるまで心に落とし込むことが大切であり、それが読み手の熱量になるのだと思います。
二宮金次郎の言葉をブログで紹介し始めたのも、彼の言葉を自分なりに解釈し、彼の言葉と自分の思考を融合させるためです。
二宮金次郎の言葉を縦糸と見なし、この文章を横糸として、心の中で一つの物になればいいなと思います。
どれだけの知識を持っていても、その使い方を知らなければ役に立たないものです。
生成AIが身近に使えるようになりましたが、生成AIが回答した情報も、氷のような状態です。
その氷をどう溶かし、どう活かすかは、その人次第です。
これからは何を知っているか?ではなく、知識を現実の中でどう活かせるか?が問われる時代になってきたと思います。
インターネットにある情報よりも、心の中からフッと湧き出る言葉を大切にしてきたいと思います。