家畜と脳

 ちょっと前まで家には犬がいた。彼は自分から進んで野良犬の地位を捨てて、私たちの家畜になった。そして私の家族がもっとも愛してペットになった。

 家畜は今やペットと他の目的で飼育されている動物に別れた。ペットは家畜の中ではもっとも良い待遇を受けている。夫が死ぬよりも悲しいと感じる妻もいるだろう。

 とすると動物には野生の動物、家畜そしてペットの三段階の階級があるのだ。

野生の動物は自由という権利を持っているが、義務として餌を自分で探さなければならない。

 種類として家畜であってもペットではないやつもいる。これはもう家畜としての地位を捨てて自由を謳歌して、食料も全て自分が調達する。これを野良という。

 ペットにも考えれば自由があると言える。家で飼われていても自分が気に食わなければ主人(どちらが主人か分からないときもあるが)の言うことを聞かなくても叱られない。それなのに食料を自分で調達する義務を果たさない。

 そうすると我が家にいた犬のペットは最高の状況を自分で作り上げたのだ。死んだときは人並みの立派な葬式をしてもらい、墓のことも考えて貰える

 こいつは生まれたときはペットだったのだが、何かの理由でその待遇から離脱した。そして野生に帰ったが、我が家を選び、再びペットの地位を得た。

 何故沢山の家の中から我が家がこいつの飼い主になる光栄に浴したか、理由は聞けなかったし、死犬には口無しで今更聞く訳にはいかない。しかし彼が我が家を選んだのは間違いのない事実だ。

 多分自分を一番厚遇してくれるのは我が家だと判定して、毎日我が家に来ては哀願の目をして私を眺めたのだ。

 妻が私と結婚して欲しいと思ったときと同じ目であったのだが、それを妻に話すとどんなお仕置きをされるか分からないので、黙っている。

 とすると私には自由がないのだ。この重大な権利を享受しないで、金即ち食料をせっせと運ぶ義務だけは課せられる。前にいた犬の待遇を羨ましく思うこのごろである。

 それは全て妻になる前の女性のあの目に起因する。勿論目だけではなく見振りや容貌その他も私の知遇を得る道具にはなったと思うのだが、後悔先に立たず。

 ペットも同じだろう。ここで考えた。何故元ペットの犬(名前を『テラ』という。犬小屋のメーカー(株)寺田の前の部分の寺、即ちテラを頂いた)は我が家を選んだのだろう。

 頭脳を使ったのだ。いつも散歩に付いて来るのも、頭を撫でてやると嬉しそうにするのも、全て彼の脳の働きだ。

 神様はどうしてこんな高級な仕事をする脳を作ったのか。生物を宇宙にばら撒いただけでは足りずに、脳を組み込むという作業で退屈を紛らわせたのか。

 とすると脳は神様からの贈り物だ。贈り物はもう自分のものだから、自分の好きに使って良い。脳はすごく役に立つし、体と違ってなかなか弱らない。

 今私がこの文章を書いているのも、脳が働いているからだ。テラが可愛いと感じ、オーロラが綺麗と目に映り、お風呂が温かくて気持ちが良いのも、全て脳の作業だ。

 筋肉が使わないと衰えるように、脳も性能が減衰する。ただ脳を使うには体力は要らない。老人でも病人でも脳は正常に作用する。神様は立派な仕事をした。

 それが分かってから私は毎年何か新しいことをやることにした。今年はブログを始めて、毎日何か文章を書いている。おかげで文章を書くのも早くなったし、少しは上手くもなった。

 運動とは筋肉の新たな経験である。運動をしていると体の衰えは防止できる。だから脳にも新たな経験をさせることで、寿命は延びると思う。私は100歳以上生きる積りだ。

酒巻 修平

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