貧乏になった大作曲家
「帰れソレントへ」「わすれな草」など200以上のカンツォーネを作曲したクルティスはどういう訳か中年を過ぎてとても貧乏になった。小さな安アパートに一人で暮らしていた。今でも歌われている有名なカンツォーネをそんなに作曲した大作曲家がどうして貧乏になったのか知られていないが、当時のイタリアの著作権が今のようでなかったのだろう。
食べる食料品もなく、先の見通しもなく日々無為に過ごしているとある日客があった。その客は歌手でクルティスが作曲をしたナポリターナを歌って稼いでいたので、懐かしくなり訪ねてきたのだ。
ぼろアパートに住むクルティスは身の不幸を恥じていたが、歌手はそんなことを気にする風もなく話がカンツォーネのことに及んでいった。彼はステージに作曲家のこのクルティスを呼んだことがあることなど楽しく話してクルティスも久しぶりに楽しい時間を過ごした。
歌手は帰り際にお金がないのですねと何気なく言い、少し私のお金を回しましょうと提案した。クルティスは戸惑ったが結局有難くその申し出を受けた。歌手の名前は「エンリーコ・カルーソー」。
今を時めく大歌手であるし、蓄音機が発明されたのを期に多くの録音を残した歴史上最高の歌手の一人である。「カルーソーの前にカルーソーなく、カルーソーの後にカルーソーなし」と言われた。
そのカルーソーは作曲家のお陰で今の自分の収入があると信じていたので、自分の財産を少しこの貧乏になった作曲家に分け与えたかったのだ。与えた金額は自分の持つ財産の半分。大金であった。
その後カルーソーは50歳前、腹膜炎で急死してしまったが、葬式にはナポリ中の市民が集まり悲しみに暮れた。それにしても多大な財産の半分を分け与えたカルーソーの心の大きさには驚嘆を禁じ得ない。
その後のクルティスがどうなったか知らないが、彼はこんなことがあってから20年以上生きた。カルーソーもクルティスも歴史上名を残し、クラシックの歌手はカルーソーの発声法を手本としているが、誰も到達できない高みにある。クルティスが作曲したナポリターナも演奏会にはなくてはならない曲が多い。
イタリアの大歌手には同様の話が多い。女性ではテトラティーニがクルティスと同様に晩年は極度の貧困に陥った。襤褸切れに近い衣装を纏い、近寄る人を敬遠するような身なりをしていた。
貧乏の原因はこれも分からないが、声が出なくなったのかも知れない。テトラティーニは有名なマリア・カラスなど足元にも寄れないような素晴らしい発声で鳥のような美声の持ち主で、残っているレコードなどで聞いても感動するような声で歌った。
彼女は貧乏になっても自分の誇りを捨てず、あるとき馬鹿にされると「私はテトラティーニだ」と言って馬鹿にした人を驚かせた。カルーソーとも良く共演し、その録音が今も聞ける。歴史上最大のソプラノ歌手である。
最近なくなったパバロッティにも逸話が残っている。同僚のホセ・カレーラスが白血病に掛かったときには手術代を出し、そのお陰でカレーラスは今でも歌手として活躍している。
カルーソーなき後社会の評判を取った歌手にベニアミーノ・ジーリがいる。週に2回ほどの演奏会を催したが、チケットを手に入れるのは極めて困難だった。スカラ座の近所のホテルを宿にしたジーリはホテルからスカラ座まで歩いて行ったが、道すがらチケットを持たない人のために歩きながら歌った。
スカラ座の近所は古くから大理石でできたビルが林立していたので、彼の歌はビルの音響効果に助けられ、沿道に立っている人を楽しませた。演奏会では無制限に自分が飽きるまでアンコールに応え、30曲以上アンコールを歌ってこともあると言う。
その彼は劇場を出るとまた沿道の人に歌を聞かせ、大きなレストランに入って行く。沿道の聴衆も付いて行ったが飲食料は全てジーリが支払った。そんな金遣いが荒いジーリは死んだとき残した金は160万円ほど。娘のピエリサ・ジーリは大いに嘆いたと言う。
スカラ座の収容人員は2000人を超える。歌手の取り分は知れないが、相当な収入があったのだろう。65歳で引退するまで相当稼いだので、いつも大判振舞いをしていたと想像できる。
ジーリの発声はカルーソーより少し劣るがカルーソーに次ぐ大歌手として今でも歌手の手本になるくらい完璧な発声をした。
酒巻 修平