本能を再考する
人が生きている目的は何であろうか。哲学的な意味ではなく、生物学的純粋科学的に考察すると面白い結果が出る。
まず、生物とは何か。どのように定義するか。科学者の間でも定まっていない。定義というのは案外簡単そうで、誰もが納得する設定は難しい。何故ならその定義によって更に考察、研究する目的や方法が異なってしまうからだ。
私が設定する生物の定義とは「生物は自己複製する系」である。自己複製とは自分のコピーを自分で作ることだ。
生物以外の自然や宇宙は自己をコピーできない。あるいは物質というものは複製されているかも知れないが、最小単位の物質は「系」ではない。
自己再生とは子孫を残すことを第一義とする。しかし自己の中にも細胞という系があり、これも新陳代謝により自己複製されている。
この定義に従うと生物は子孫を残すために生きていると言わなければならない。生きるということは従って子孫を残すための補助作業である。
だから新陳代謝も子孫を残すための補助作業であろう。そう考えると死とは新陳代謝の終了とも言える。それは死の定義である。
心臓が停止してもまた蘇ることがあるし、呼吸が止まっても人工呼吸器で人の生を保つことが可能である。
さて本能とはその自己複製、即ち子孫を残すことと定義されよう。そのために人は生きなければならない。その方法が現在本能と言われているものだ。
食べる、寝ることは本能ではあるがそれは副次的なもので本能の根幹をなすものではない。異性と交わり、子孫を残すために行っている行為以外にも副次的な本能は沢山ある。
身を守ることも本能だ。そうでなければ自己の生が失われるから、副次的とは言え本能の一つであることに間違いはない。
暑さ、寒さを避ける。物が飛んでくれば瞬間に目を閉じる。高い所に行けば身が縮む。泳げない人は水が怖い。これら全ては本能による行為である。
疲れたら休みたくなるのも本能だ。そのまま体を動かし続けると死にいたるから、体内には乳酸が溜って疲れるようになっている。
逆に体を動かさなければ諸器官に怠け癖が付いて、これも危険であるから、人は動くし、動物は餌を求めて移動する。
目、耳、鼻、舌、皮膚などは生を保つためのものである。これらの器官を利用して人は危険から身を守っているのだ。
繰り返すが、生物である人が生きているのは子孫を残すためだ。だとすると根幹的な本能は異性と交わることである。
この欲望がなくなると人は死に向かって進む。言い換えれば異性が欲しい間は生を保つことができる。
記録に残っている「old Parr」さんは150歳以上生きた。これはオールドパーというスコッチウイスキーのラベルに書いてある。彼は110歳の時に女性を暴行し、罪に服したと言われている。
現在の若い男性の多くが異性を欲しがらないと言われている。そうであれば彼らの寿命は短くなるのではないかと予想される。
ところが人においては脳が他の動物より異常に発達した。脳の役目は生を保つことであったのだが、人の脳は発達しすぎてその本来の役目を超越してしまった。
ここに新しい根幹的な本能が生れた。即ち生を保つため以外の目的で脳を使用することだ。
記憶し、考え、創造する。これが新しい人の本能と言える。だから異性を欲しくない人も脳を使う、即ちこの新しい本能を満足させると人は長生きする。
人がどのように進化するか、想像の域を越えている。女性は単独で子供を産むようになるのか。ではその場合の男性の役目は何か。
あるいは発声器官が退化し、テレパシーなどの電子信号だけで意思を通じさせることが可能になるのか。脚が退化し、下半身が車のようになって歩くより転がるようになるのか。考えると興味深い。
しかし今現在、健全な生を保つには異性を抱き、頭を使うことが一番だろう。
酒巻 修平