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肩書きと自分自身は別なもの

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今日の言葉

イソップ寓話より引用

182)神像を運ぶ驢馬
男が驢馬に神像を乗せて、町へと追っていた。大勢の人が行き会い、神像を拝んだが、驢馬は自分が拝まれていると思い、有頂天になって嘶き、それ以上先へは進もうとしなかった。驢馬追いは事情を悟って、棍棒でどやしつけながら言うには、 「どうしようもない奴だ。驢馬のお前が人間に拝まれる、なんてことがあってたまるか」 他人の善きもので自慢する者は、事情を知る者には笑われる、ということをこの話は説き明かしている。
【引用元 岩波文庫 イソップ寓話集 著 イソップ 翻訳 中務哲朗】

肩書きと自分自身は別なもの

ロバは、背中に乗せている神像を周りの人が拝んでいるのに、自分が拝まれていると勘違いしました。

人間社会でもこのような光景をよく見かけます。

人間社会でいう神像とは、「肩書き」のことです。

社会には、肩書きを使って自分をよく見せようとする人がいます。〇〇大学卒、弁護士・医者・政治家などの職業、元CAや元アナウンサーなどの以前の経歴を使って、権威づけしようとする人が多いと感じます。

その肩書きを使うことで、自分を良く見せようとするのです。

しかし、周りの人はその肩書きを見ているのであって、その人自身を見ているのではありません。

本来であれば、肩書きや権威の有無に関わらず、その人自身が素晴らしければ、自然と周りの人は認めるものです。

肩書きで権威づけする人がこのことに気づかないと、この寓話のように他人の善きもので自慢する者は、事情を知る者に笑われることになります。

イソップ寓話集の「神像を運ぶ驢馬」を読んで、そんなことを感じました。

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