山はいつでも待っている

 私は中学から昆虫採集に凝っていて、大学を出ると昆虫学で身を立てようと考えていた。高校時代、日曜日には山へ採集に出かけ、月曜日にすでに次の日曜日に行く計画を立てる。

 当時高校生は全員お金など持っていなかったが、私はアルバイトをして昆虫査収用の費用を捻出していた。新聞配達、郵便局の仕分け、工員、なんでもやった。

 高校3年生なってもあまり状態は変わらなかった。でも大学受験を控えているものだから受験勉強はやった。でも頭は昆虫採集のことばかり。ときには仲間が館長を務めている大阪科学博物館に行って話しをしたりした。

 ある時その館長があまり受験勉強をしない私を見かねて、人生あるいは大学受験の先輩としてアドバイスしてくれた。曰く「山は待ってくれるが、今は勉強をすべき時だよ」と。

 だがその人のアドバイスを無にして受験勉強より昆虫採集を選び、お座なりの勉強で受験に及んだ。結局何とか合格したが、その人のアドバイスは後々まで記憶に残ることとなった。

 それから60年。今思うことは「山は待ってくれない。勉強はいつまでも待っていてくれる」というその人が言ったことと正反対なことだ。その人はもう亡くなったが、多分「少しの間山は忘れてやるべきことはやらなければならない時にやるべきだ」ということをアドバイスしてくれたのだと解釈している。

 私は今毎日勉強している。大学時代はほとんど勉強せず部活にうつつを抜かしていたが、学校を出ると勉学意欲が猛烈に起こってきて、小遣いの多くを費やし、語学、法律、芸術何でも手辺り次第に勉強した。

 どうも人はやる気にならなければ何もやれないらしい。やる気になった時には寝食を忘れやりたいことをやるという動物らしい。

 私は不整脈を患い、もう登山はできない。山へは車で行って山の景色を愛でるだけだ。「山はいつまでも待ってはくれない」のだ。人がやる気力と体力を持っている時には何をも忘れてやらなければ、後で後悔することになる。

 たまたま私は受験には成功したが、もし失敗していても山に行って昆虫採集をしたことには後悔しないだろう。一時自分の欲望を我慢してやらなければならないことをやるのが人としてあるべきことだとは思うが、一方やりたいことは我慢せずやり通すことも非難すべきかどうかは分からない。

 少し若い時は毎日ほど酒を求めて街を彷徨った。それに飽きたころ、あるいは老齢になったころ、本から知識を得るより、知識や考えを自分自身で作ることに興味を覚えた。本もその助けになるが、自分だけの世界を作りあげたい。

 私はこれから何十年も生は保てないだろうから、一刻を惜しんでそんなことに精力を使いたい。それが何になるか分からないが。少なくても自分の心の満足を得ることができる。

 幸せが心の満足だと思えば、今の私は極めて幸せだ。心の満足を得るには何が必要かは人によって違うだろうが、幸せは自分で得ることができることだけは間違いがない。

 今でも昆虫採集の夢を見る。夢とは何であるか、何が根拠となるかについては分かっていないが、少なくても自分が経験し、考えたことが夢になって現れることだけは経験上分かる。

 昆虫採集はある程度のレベルに達し、それで身を立てることも考えたことがある。実際上それは希望であっただけでそんな環境を得ることができなかったが、ある程度のレベルまで達したとは思っている。

 しかしそれがまだ夢に出て来る。昆虫採集に関する自分の夢とはなんだったのだろうか。その夢を達成できなかったことは自分がいまだにそんな夢を見ることで証明できる。

 だが達成できたとすればそれが幸せだったのか、何とも言えないし。だれの夢も達成できないから夢として残り、それが幸せということではないだろうか。

 山は待ってくれない。山へ行きたいと思えばすぐ行くが良い。貴方の体力の頂点は早く来るが、脳の頂点は永遠に来ない。山へ行こう。いけなくなったら勉強をしよう。

酒巻 修平

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