羊羹

 幅3mm位に切った黒紫の薄い一切れを口に入れ、少し噛む。途端に小豆の風味と上品な甘さが口に広がる。本当はもっと分厚いのを食べたいのだが、羊羹は貴重品。大家族の一人に渡るのはこのくらいの厚みのものが精一杯だ。

 そこで噛んだ一切れを元のものから歯で噛み切って口に含み、全体を舌で舐める。美味しい。誰がこんな美味しいお菓子を創作したのか、感謝をしながら未練がましく噛み始める。

 小豆の風味は口いっぱいに広がり、後から得も言えない甘さが追ってくる。こんな美味しいものを買ってくれた母に感謝の気持で一杯だ。ああ、美味しい。もったいないからその一切れが完全にこなれるまで噛む。決して生噛みのまま飲み込んではならない。

 一噛み、一噛み至福の時間を過ごしながら、もう夢見心地である。でもまだ歯で噛み切った一切れを食べただけだ。まだ沢山残っている。まだ口の中では歯に噛まれながら私に美味しさと風味を味合わせているのが残っている。

 更に噛む。口の中の一切れはだんだん粘度が薄くなるが味は変わらない。ああ、美味しい。口の中の最後の固体を噛むともうその一切れは堅さがない。

 だが片恋の薄絹のネルは口の中で硬口蓋、舌、歯の裏を優しく包み込み、私を夢幻の世界へ誘う。乙女を最初に抱いた感触とはこんなものだろうかと、まだそんな経験のない私は未知の世界に憧れる。

 そして意を決してその薄絹を喉の奥に誘う。先導するのは満腔の唾だ。その天使は喉を過ぎる時もう一度優しい風味と幸せと与える。喉を通り、食道に微かな感触を残しながら、胃の腑に落ちていく。

 口の中には微かな余韻があり、昨夜見た乙女の姿を彷彿とさせる。味わい深いものではない。あるのは春の淡雪のような今にも消えそうだが、この世のものとは思えないような幻。

 だが手にはまだ一切れだけが齧られただけの羊羹が残っている。歯の後など形を付けられていない。出来るだけ真っすぐに優しく噛み切られた薄い大きな断片がある。

 それを続けて一挙に口にしてはならない。母が煎れてくれたお茶がある。それを手に取り先ほどあった乙女との出会いを思い出しながら、口に含む。玄米茶のようだ。お茶に含まれる玄米は口に残る乙女の残り香を取り込みながら胃の腑に流れ込む。

 ああ、幸せだ。淡雪のような乙女と先ほど時間を共にしたのだ。乙女は胃の腑に落ちたが思い出は私を去らない。絹のような肌、薫り高い薄肉そんな夢の世界が先程まであったのだ。

 だがまだ次の断片に取り掛かるには早すぎる。先ほどまだあった乙女との出会いが思い出になるまで、次の一噛みに移ってはならない。喉の奥にはまだ香りが残った霧が漂っている。

 霧は徐々に遠くに去っていく。さあ次の第二歩に歩を進める時だ。羊羹の包み紙を少し剥いて艶のある黒紫を露出する。衣を肩まで下ろされた乙女は慄く。この人に私は食されるのだというが如く、緊張している。

 そした最初の一噛みのように優しく、柔らかく歯を入れ込む。新ただが昔の思い出が蘇る。今度はしかし滑らかで舌の上を滑っていくように感じる。次の動作を始めるのを待ちきれない。

 最初と違ってもう経験を積んでいる。口の中の断片に歯を入れるには躊躇はない。すると先ほどの風味と甘さが再び口の中を占領する。だが先ほどの乙女はいない。

 屈強な武士だがこちらの味方が口少なく自分をガードする。形や態度は強硬だがその中には男らしい信頼感が滲み出る。美味しい。これは変わりない。

噛むに従って強い味わいがある。だがどこか節度があって、不作法など微塵もない。それが口中に広がり、そして喉から胃腑に進んでいった。

昔の羊羹はこのようだった。小豆の風味を失うことなく、甘さは上品だった。多分職人が丹精込めて手作りをしたのだろう。

今の羊羹はただ甘く、小豆は単なる材料だ。風味は砂糖の甘さに消され、味わいは単純だ。

昔を思い出し、羊羹を久しぶりに買ってみた。単なる砂糖菓子は食べるには値せず、毒々しさがいつまでも口に残る。

乙女の淡雪はもうない。各メーカーのものを食してみた。昔は帰ってこなかった。羊羹は私が食べる食品から消滅した。

酒巻 修平

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