今日の言葉
二宮翁夜話より引用
176)推譲を知らぬ富者はまぐそ茸
翁のことばに、農家でも商家でも、富家の子弟は、自分で勤めるべき仕事がない。貧家の者は、生計のために勤めざるをえないし、また富を願うから自然と勉励もするが、富家の子弟は、たとえば山の絶頂にいるようなもので、もう登りようもなく、前後左右みんな目の下にある。そのために分外の願いを起して、侍のまねをしたり、大名のまねをしたり、増長に増長をして、ついに滅亡してしまう。天下の富者はことごとくそれだ。ここに、長く富貴を維持し、富貴を保てる道としては、ただわが道の、推議の教があるだけだ。富家の子弟がこの推護の道をふまないかぎり、千万百万の金があっても、まぐそ茸と少しも変りはない。まぐそ茸というやつは、時候によって生じて、いくばくもなく腐ってしまい、世の中の役に立たない。いたずらに生じて、いたずらに滅するだけのものだ。世間で富家と呼ばれるものがこれと同じありさまなのは、なんと惜しいことではないか。
【引用 二宮翁夜話(上) 福住正兄:原著 佐々井典比古:訳注】
恵まれた環境の子供は「まぐそ茸」に育つ
日本の政治家の中には、世襲政治家が国会全体の3分の1を占めていると言われています。
親が政治家であるからといって、子もそのまま政治家になるのは問題だと思います。
これは二宮金次郎の「まぐそ茸」の例に似ています。
政治家だけの話ではありませんが、恵まれた環境で育ち、将来の方向性が見えている子供は、一見良さそうに見えますが、社会を学ぶ機会を奪われ、自由に未来を想像することができなくなり、他人を思いやることもできなくなる可能性があります。
全てが整った環境で生まれ育った子供は、それを失うことを恐れ、自己の地位を守ることに執着するかもしれません。
その結果、周囲の環境変化に対応できず、人間性が堕落する可能性があります。
恵まれた環境であっても、その環境をそのまま子どもに与えないこと、または恵まれているからこそ他人に譲る精神(推譲)を教えることが重要だと感じます。
二宮金次郎の時代も現代も、人間の本質は変わっていないと思います。
二宮金次郎の夜話176段「推譲を知らぬ富者はまぐそ茸」を読んで、そう感じました。