今日の言葉
二宮翁夜話より引用
172)湯船の教訓
嘉永五年の正月、翁は著者の家の温泉に数日入浴しておられた。著者の兄の大沢精一が翁のお供をして入浴した際、翁は湯船の縁の腰掛けて、こうさとされた。
世の中では、そなたたちのような富者が、みんな足りることを知らずに、飽きゆくまで利をむさぼり、不足を唱えている。
それはちょうど、おとながこの湯船の中に突っ立って、かがみもせずに、湯を肩にかけながら、湯船が浅すぎるぞ、膝までも来ないぞと、どなるようなものだ。
もしも望みにまかせて湯をふやせば、小さい子どもなどは湯には入れなくなるだろう。だからこれは、湯ぶねが浅いのではなくて、自分がかがまないことが間違いなのだ。この間違いがわかってかがみさえすれば、湯はたちまち肩まで来て、自然と十分になるだろう。
他に求める必要がどこにあろうか。
世間の富者が不足を唱えるのは、これと何ら変わらない。およそ、分度を守らなければ、余財がおのずからでてきて、十二分に人を救えるはずだ。
この湯船が、おとなはかがんで肩につき、子どもは立って肩につくのを中庸とするように、百石の物は五十石にかがんで五十石の余財を譲り、千石のもの五百石にかがんで五百石の余財を譲る。これを中庸というべきだ。
もし町村のうちで一人この道をふむ者があれば、人々はみんな分を超えた過ちを悟るだろう。人々がみんなこの過ちを悟って、分度を守ってよく譲れば、その町村は富み栄えて平和になること疑いない。
古語(大学)に「一家仁なれば一国仁に興る」といっているのは、このことだ。よく心得なければならない。
仁というものは人道の極致であるが、儒者の説明はやたらにむずかしいばかりで、役に立たない。
身近なたとえをひけば、この湯ぶねの湯のようなものだ。
これを手で自分の方へかき寄せれば、湯はこっちの方へ来るようだけれども、みんな向こう方へ流れ帰ってしまう。これを向こうの方へ押してみれば、湯は向こうの方へ行くようだけれども、やはりこっちの方へ流れて帰る。少し押せば少し帰り、強く押せば強く帰る。これが天理なのだ。
仁といったり義といったりするのは、向こうへ押すときの名前であって、手前にかき寄せれば不仁になり不義になるのだから、気をつけなければならない。
古語(論語)に「己に克って礼に復れば、天下仁に返す。仁をなす己による。人によらんや」とあるが、己というのは手が自分の方へ向くときの名前だ。礼というのはこの手を相手の方へ向けるときの名前だ。手を自分の方へ向けておいては、仁と説いても義の講釈をしても、何の役にも立たぬ。よく心得なければいけない。
いったい、人のからだの組み立てを見るがよい。人間の手は、自分の方へ向いていて、自分のために便利にできているが、また向こうの方へ向いて、向こうへ押せるようにもできている。これが人道の元なのだ。鳥獣の手はこれと違って、ただ自分の方へ向いて、自分に便利なようにしかできていない。
だからして、人と生まれたからには、他人のために押す道がある。それをわが身の方に手を向けて、自分のために取ることばかり一生懸命で、先の方に手を向けて他人のために押すことを忘れていたのでは、人であって人ではない。つまり鳥獣と同じことだ。
なんと恥ずかしいことではないか。恥ずかしいばかりでなく、天理にたがうものに益なし、これが天理なのだと教えている。よくよくかみしめて、味わうがよい。
【引用 二宮翁夜話(上) 福住正兄:原著 佐々井典比古:訳注】
足りるを知ること
二宮金次郎の「夜話」の中で、「湯船の教訓」は私が最も好きな言葉です。
「湯船の教訓」は、二宮金次郎の「たらいの水」で有名になった言葉で、「足りるを知ること」と「他者を満たすこと」の2つの視点を持っています。
「足りるを知ること」と「他者を満たすこと」は、一見相反するように思えますが、金次郎はこれが天理だと説明しています。
人は自分の心が満たされていなければ、他人の心を満たすことはできません。逆に、自分の心が満たされていないと、他人から満たしてもらおうとします。
だからこそ、「足りるを知る」ことで自分の心を満たし、その後に「他者を満たすこと」が重要だと言えます。
しかし、現在の日本は「足りる」ことを理解していないと感じます。
社会全体の「豊かさ」という水が既に半分になっているにも関わらず、「水が足りない」と叫ぶような状況です。
そして、「足りる」ことを理解していないからこそ、心が満たされず、もっとを求めることで詐欺や争いが起こる。
これは、湯船の水を自分に向かって引き寄せるような行為で、結果として水は他に流れていきます。
その結果、湯船の水は少なくなり、悪循環が進行します。
自然環境や社会情勢が急速に変化する中で、「足りる」ことを理解しないと、最終的には何も残らなくなる可能性があります。
だからこそ、今の生活が当たり前でないことを自覚し、普通に生活できることに感謝し、心を満たした状態でこれからの変化に対応することが重要だと感じています。
二宮金次郎の夜話172段「湯船の教訓」を読んで、そう感じました。