どうして偉大な人は昔に多いのか

 私には長年不思議に思っていることがある。芸術家にしろ、科学者、数学者であれ昔であればあるほど偉大な人がいるということだ。

 ノーベル賞は毎年学問や文学で優秀な業績を上げた人に与えられ、それなりに人類に貢献する人はいる。

 だがどうもその人たちの事績の内容は19世紀の学者より程度が低いように思われる。もう科学することがなくなったのか、量子力学やコンピューターなどの大きな発明発見が1950年以降くらいからもうない。

 数学の分野ではギリシャの数学者は今でも通用するような理論を打ち立てたし、現存する絵で一番はレオナルド・ダ・ビンチのラ・ジョコンダと言っても大きな間違いではないだろう。

 彫刻ではミロのビーナスや日本の半跏思惟の像などは歴代最高傑作だ。江戸時代の単なる版画が世界の画家に驚愕を与え、手本になった。

 実は有名ではないが、掘り出された彫刻でミロのビーナスより更に素晴らしい形をとどめている彫刻を見たことがある。それはミロのビーナスよりよほど古い。

 素晴らしい作品や研究、発明は平均的に時代が古ければ古いほど優秀であると思えてならない。

 あるいはアルタミラの洞窟画は世に知られた絵より更に驚くほど素晴らしいのではないかとも考えてしまう。

 これはどうしたことだろうか。中国やロシアなどでは共産主義が芸術の多くを破壊した。これは理由が明白だが、その他の国ではどうしたことだろうか。

 私の鑑賞眼が正常ではないのか。でも誰に聞いても私の意見には反論がないので、鑑賞眼が歪ではないらしい。

 理由は何だろうか。世が複雑になるにつれて雑事に科学者、芸術家が煩わされて自分の仕事に没頭できないのか。それとも芸術も科学も金に関連しないと成り立たなくなったのか。どうも違う。

 それでは人の能力が退化したのか。退化も進化の一つの形態とみれば人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)は進化して違う能力を身に付けるようになったのか。

 または純血がいなくなって、混血が進むにつれて人の能力は平均化したのか。そう言えば最近の女優は昔ほど美しくない。

 もっと馬鹿らしいことを考えるとネアンデルタール人の方が現生人類より優秀だったのではないか。聞くところによるとネアンデルタール人の脳の容積は現生人類より大きかったと言う計測値もあるようだ。

 アルタミラの洞窟絵はネアンデルタール人が書いたかもしれない。そのネアンデルタール人は他の霊長類と混血してだんだんと血が薄くなり、現生人類と同等レベルに落ち着いたのか。

 日本の伝統芸術は西洋のものより優秀だったと私は個人的には思うのだが、どうだろうか。生花、造園、建築デザイン、歌舞、詩、言葉、全てにおいて白人文化より上ではないか。

 それが明治になって西洋の模倣をするようになって程度が極端に下がった。もう浮世絵の良いものは作られなくなったし、桂離宮にある庭園は模倣すら難しい。

 とすると人から新しいものを作る意欲が減衰したのかも知れない。模倣は実物を超えることはできない。

 そう考えるとコンピューターのプログラムは今の物が昔の物より良い。人はコンピューターに関する技術に全精力を傾けているのかも知れない。

 そう考えると合点が行くが、すべての人がコンピューターの技術開発に従事しているのではないだろう。

 将棋はどうした。現在の名人が解けない詰将棋が江戸時代にはあったらしい。まさか人の脳の能力が低下したとは考えたくない。

 だが科学や芸術の質の低下の理由はなんだろうか。誰か解き明かして質の向上を図ってくれないものかしら。

酒巻 修平

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