水泳と私

私は小学校に上がる前に2回も肺炎を起こし、入学式にも出ることができなかった。それに生まれつき喘息の持病があって、学校もしょっちゅう休む、所謂虚弱児であった。

 大学時代も病気がちで卒業後の就職が心配であったが、大学の先輩が部長と課長をやっている会社に潜り込むことができて一安心した。

その会社でも休み勝ち。でもそのころは会社も大らかで馘にもならず、ある事情で退社して他社に勤めたあと33歳で独立した。

 そのころは借家に住んでいてエアコンは居間に旧式のが一台あるだけ。湿度が高く喘息の具合は良くなかった。

 東大病院に通って種々の治療法を試みたがどうしても治らない。その日も発作があって寝床に付くほどではなかったが、自分が興した会社にも出勤できない。

 クーラーがある部屋は畳敷の和室であったが、トイレに立った。暫く便座(不思議に洋式だった)に座っていると喘息の具合が好転するのに気が付いた。

 病院でダニの死骸が粉になってそれを吸うことでアレルギー反応が起こるから喘息が出るのだと言われていた。するとトイレにはダニがいないか極めて少ないのではないかと、ふと気が付いた。

 それからはその和室の部屋にはいかなくしたし、転居したときも居間や寝室がフロアリングのところにした。

 それから何十年、病欠は一日もない。当初は飲み薬だったが、吸入剤が発売されそれを使用すると発作の気配もなくなった。

 さて私は子供のころ虚弱であったので、運動は苦手で勿論泳ぐこともできない金槌だった。それでも子供もいるし夏にはプールへ遊びに行くことが多かった。

 

 泳げないという劣等感があったからか、屋根の上から隣の屋根へ空中を泳ぐ夢をよく見た。泳げたらどんなに良いだろうかと夢想したが、どうしても泳げない。

ある日プールで立って歩いていると「泳げないやつは邪魔だ。どけ」と言われ反骨精神が目覚めた。

そのときは39歳、夏であった。-見ておれ、40歳の誕生日にはクロールで1500メーター休みなく泳いでやるー と一年発起、「マークスピッツ」の水泳の教則本を買ってきてクロールの練習を始めた。

最初は息継ぎが難しかったがこんなのは誰でもできる。私も1,2日で簡単に会得してしまった。最初は25メーターを泳ぐことができなかったが、それもそんなに時間が掛からず達成した。

次の関門は200メーターだそうだ。この距離を泳ぐことができるともうあとは大丈夫だと本に書いてあり、それも間もなくできるようになった。

さて40歳の誕生日になった。それができるかどうか友達と賭けをしていて私は45分ほど掛けて泳ぎ切って掛金の10000円をゲットした。

子供は3人。真ん中の男の子を水泳教室に入れるとそこで馬鹿な指導員に乱暴な教え方をされ水恐怖症に掛かってしまった。

 仕方なく「プールに行こう。水に入らなくても良いからお好み焼きを食べて帰ろう」と言うことから始め、だんだんと教えてとうとうその子もクロールを泳げるようになった。

 今その子の趣味はサーフィンで、冬でも出かける。後の二人もクロールで泳ぐことができる。

それから50歳まで週に3回くらいスポーツジムに泳ぎに通った。1500メーターを一回と200メーターが何回か。とても健康だった。

 ある日鏡で上半身を写すと逆三角形の見事な体。これが虚弱だった自分なのかと驚きまた感動もした。

 ある日魚が人間と比べ物にならないくらい早く泳ぐのは何故だろうかと考えた。結果、人は腕と肩くらいで水を掻くが魚は体全身を使って泳ぐからだと思い至った。

それで自分もそのように泳ごうとして体を縦にしてくねらしながら泳ごうと試みた。しかし運動神経が鈍い私。とうとうそんな泳ぎはできなかった。

それから15~20年経ってバサロという泳法が背泳の一部に取り入れられたのを知った。

自分の考えが間違っていないことに気が付いたが、まだバサロはヒラメのように泳ぐので遅い。いつの日か鮪や鰹のように縦に泳ぐ泳法をする選手が出て来ないか見守っている。

50歳になったころそのジムのプールが使用できなくなり、他のジムに行くようになったが私の水泳熱は冷めていた。それから2年ほど経って家の鏡に自分の上半身を写すとそこには正三角形があって、がっかりしたのを思い出す。

それから更に年月が経過して私は不整脈になってしまった。生活するのには支障がないが、もう泳ぐなんてできない。それでも屋根から屋根へ空中を泳ぐ夢は見ない。泳げない劣等感だけは克服した。

酒巻 修平

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