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生活の貧困と心の貧困

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今日の言葉

二宮翁夜話より引用

111〕何を貧·富というか
翁のことばに、世間の人は、口には貧富·驕倹と言い慣らわしているが、何を貧といい、何を富といい、何を驕といい、何を倹というか、その道理をよく知らない。天下には、もとより大も限りがなく小も限りがない。持ち高十石を貧といえば無禄の者があるし、十石を富といえば百石の者がある。百石を貧といえば五十石の者があるし、百石を富といえば千石万石がある。その千石を大と思えば世間では小旗本というし、万石を大と思えば世間では小大名という。それなら何を認めて貧富·大小を論じたらよいのか。これは、物の売買のときに、物と価とを比ベでこそ高い安いが論ぜられるが、物ばかりでは高い安いがいえなし、価だけでも高い安いが論ぜられないのと同じことだ。この点が世人の戸惑いするところだから、くわしく說明しょう。いま、千石の村で戸数が百戸あるとすれば、一戸十石にあたる。これは自然の数であつて、ごれこそ貧でもなく富でもなく、大でもなく小でもなく、不偏不倚の「中」といラベきだ。この「中」に満たないのを貧といい、この「中」を越えるのを富という。また、この十石の家が、九石で暮しをいとなむのを倹といい、十一石で暮すのを驕奢。という。そこで私はいつも、「中は増減の源、大小両名の生ずるところなりといつているのだ。だから、貧富は一村一村の石高の平均度によつで定めるべきだし、驕倹は一己一己の分限によつて論ずるべきだ。その分限によっては、朝夕美味美食に飽きて、にしきの着物を着ておろうと、玉をちりばめた家に起きふししようと、おごりではない。また分限によつては、米の飯もおごりなら茶もたばこもおごりなのだ。みだりに驕奢·節倹を論じてはならい。
【引用 二宮翁夜話(上) 福住正兄:原著 佐々井典比古:訳注】

生活の貧困と心の貧困

日本では、貧困層が増加していると言われています。

しかし、「貧困層」とは一体どのような人々を指すのでしょうか。

日本における「貧困層」は、等価可処分所得または等価世帯収入が全世帯の中央値の半分未満である世帯を指します。

2022年(令和4年)の国民生活基礎調査の概況によれば、2021年の貧困層の所得は127万円だったとのことです。

2021年(令和3年)の貧困線(等価可処分所得の中央値の半分)は127万円で、「相対的貧困率」(貧困線を下回る世帯員の割合)は15.4%(2018年比-0.3ポイント)でした。

引用元:2022年(令和4年)国民生活基礎調査の概況 https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa22/index.html

日本での「貧困」は収入格差によって定義されています。

確かに、収入が少なければ生活は厳しくなり、貧困状態に陥りやすいでしょう。

しかし、日本では仕事がいくらでもあり、生活保護などの制度もあり、飢死することはほとんどないと思います。

私自身は、貧困には2種類あると考えています。

1つは生活上の貧困、もう1つは心の貧困です。

生活上の貧困とは上記で説明したような貧困。

心の貧困とは、「自分はダメだ、何もできない、貧乏だ」と思い込む状態を指します。

心が貧困状態になれば、生活も貧困になりやすいでしょう。

メディアが「貧困」という言葉を頻繁に使用すれば、心の貧困が増え、結果的に社会全体が貧困化していくと思います。

逆に、心の貧困を改善できれば、自然と物質的な貧困からも脱出できると思います。

貧困から脱出するためには、支出のバランスを図りながら、二宮金次郎の思想を学ぶことが最も有効だと感じます。

二宮金次郎の夜話111段「何を貧·富というか」を読んで、そう思いました。

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