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本当にかわいそうなことは無関心なこと

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今日の言葉

二宮翁夜話より引用

77〕人道と殺生戒
あるひとがいった。日光の温泉に行きましたところ、山中では、他国の魚や鳥を食うことを禁じて、山中の魚や鳥を殺すことを禁じないのです。他の神山霊地などでは、境内に近い沼地や山林で魚とか鳥を殺すのを禁じています。これは「庖厨を遠ざける」意味で、耳目の及ぶ所で生類を殺すのを忌むのでしょう。ところが日光温泉のおきては、これと反対で、山中の殺生を禁ぜずに他国の魚鳥を禁じておって、それが山神の神意だといっています。こんな道理はありえないと思いますが。  翁はいわれた坊さんは殺生戒を説くけれども、これは実は不都合なものだ。天地は死物ではなく、万物もまた死物ではない。そういう生きた世界に生れて殺生戒を立てたら、何によって生を保つことができるのだ。生命を保つのは生物を食することによる。死物を食って、どうして生命が保たれよう。ひとはみんな鳥獣虫魚のように、飛んだり動きまわりたりするものを殺すことを殺生といって、草木や穀物や果実を殺すのも殺生だとは気がつかない。飛んだり動きまわったりするものを生物といい、草木・果実・穀物を生物でないというのか。鳥獣をほふるのを殺生といい、穀物を煮るのを殺生でないというのか。そうはゆくまい。とすれば、木食行者のような者でも、秋の山の落葉を食って生命を保つことはできまい。してみれば、殺生戒といっても、ただ自分たちと類の近いものを殺すことを戒めて、類の異なるものを殺すことは戒めないのだから、不都合なものだ。だから、殺生戒というべきでない、まあ殺類戒とでもいうがよいものだ。およそ人道は、人間がわがまま勝手に立てたものだから、とことんまで推しきわめてみると、みんなこのようなところがある。怪しむに足らない。さて、日光温泉は深山だ。深山などには大昔の遺法が残るものだから、これも手な都合で立てた、昔の遺法なのだろう。それも、深山は食糧に乏しくて、四辺に往来の自由な所と違うのだから、大昔、食物を得ることを善としたところから、このようなことになったのだろう。怪しむに足らないのだ。
【引用 二宮翁夜話(上) 福住正兄:原著 佐々井典比古:訳注】

本当にかわいそうなこと

以前、別のブログで合鴨農法について書いたことがあります。

合鴨農法では、稲が小さいときに田に合鴨を話すことでヒエ(雑草)を抑制するのですが、夏を過ぎれば合鴨の役割は終わり、最後は鴨肉としていただきます。

そのブログを読んで、「合鴨がかわいそうだ」というコメントをいただきます。

確かに、田んぼで働かせた合鴨を最後に食べてしまうことは、一見、かわいそうに思えるかもしれません。

しかし、私から見れば、田んぼのヒエを抑制してくれて、最後は我々が食べてることで、明日へのいのちのエネルギーとなっているので、合鴨には「感謝」しかありません。

私たちが食べる全ての食材は、「他の生命」から得られています。

合鴨が「かわいそう」だとするなら、米や鶏はかわいそうではないのでしょうか。そんな疑問を感じます。

「かわいそう」というのは簡単なこと。

でも、毎日私たちが食べている「いのち」に気づき、そして、今日を生きていくことへの「感謝」することの方がいいと思います。

本当にかわいそうなことは、日常的に食べている「いのち」に対する無関心だと思います。

大切なことは、他の生命を利用して生きている自分自身が、どう生きるべきかを考えることです。

いただいた「生命」の分だけ、今日を生きます。

当たり前のことですが、飽食の時代では難しいことかもしれません。

二宮金次郎を夜話77段を読んで、そんなことを感じました。

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