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善悪の定規

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今日の言葉

二宮翁夜話より引用

108〕善悪は米食い虫の定規
翁のことばに、儒教の本(大学)には「至善に止まる」とあるし、仏教では衆善奉行」といっている。けれども、その善というものがどのような善なのか、はっきりしないために、人々は善をするつもりで、てんでに違ったことをしている。もともと、善悪は一円なのだ。盗びと仲間では、うまく盗むことが善で、人をそこねても盗みさえすれば善とするだろう。しかし世の中のおきてでは、盗みを大悪としている。立場によって、このとおり懸隔が生ずるのだ。いったい、天には善も悪もないのであって、善悪は人道で立てたものだ。たとえばいろいろな草木に、どうして善悪があろうか。それを、この人間のからだから見て、米を善、はぐさを悪としている。食物になるかならないかで区別するからだ。天地は決してそんな区別をしない。はぐさというものは、生ずるのも速ければ茂るのも速い。天地生々の道にすみやかに随順するから、あるいはこれを善草といってもさしつかえなかろう。米麦のように人の力を借りて生ずるものは、天地生々の道への随順のしかたが、はなはだうかつだから、悪草といってもさしつかえあるまい。それなのに、ただ食えるか食えないかの差別だけで善悪を区別するのは、人間のからだから出た、かたよった道でなくて何だろうか。この道理は、心得ておかねばならない。上下・貴賤はもちろん、貸す者と借りる者、売る人と買う人、また人を使う者と人に使われる者に引き当てて、よくよく考えるがよい。 世の中万般のことはみな同じで、あちらに良ければこちらに悪く、こちらに悪いのはあちらに良い。生きものを殺して食うほうはよろしかろうが、食われるほうにははなはだ悪い。 とはいえ、すでに人体がある以上は、生物を食わなければ生きてゆけないのだから、しかたがない。米・麦・野菜でも、みんな生物ではないか。そこで私はこの道理をつきつめて、「見渡せば遠き近きはなかりけり己々が住処にぞある」とよんだ。けれどもそれは、単に道理をいったまでのことだ。そもそも人間は米食い虫だ。この米食い虫の仲間で立てた道は、衣食住になるべきものを増殖するのを善とし、この三つのものを損害するのを悪と定めている。 人道でいうところの善悪は、これを定規とするのだ。この定規に基いて、諸般、人間のために便利なことを善とし、不便なことを悪として立てたのが人道なのだから、人道が天道と別個なことはいうまでもない。けれども、天道に背反するというのではない、天道にしたがいながら、違うところがあるのが人道なのだ。この道理をいま説明してみたわけだ。

【引用 二宮翁夜話(上) 福住正兄:原著 佐々井典比古:訳注】

善悪の定義とは

戦争は常に正義という大義名分で始まります。

ロシア系住民がウクライナで苦しんでいるとか、ハマスのテロで多くの人々が誘拐・殺害されているとか。

その正義の名のもとに、多くの人々が死に、街が破壊されます。

人間1人1人にとっては、戦争は「悪」であるとわかっています。

しかし、国家の正義の前では、戦争が正当化されてしまうのです。

二宮金次郎の言葉を借りると、「自然には善も悪もない」と言います。

正義も悪も、人間のルールが作り出すものです。

そのルールに誤りがあれば、正義は悪に、悪は正義に変わります。

だからこそ、国家や組織が正義を振りかざすときは、その正義の背後に隠れたルールを各個人が理解しなければなりません。

自分たちは正義で、相手は悪という単純な思考パターンに陥ってはならないと思います。

各個人が正義を疑うことで、国家間の戦争や人間同士の争いを減らすことができるかもしれません。

二宮金次郎の夜話108段「善悪は米食い虫の定規」を読んで感じたことです。

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