17-2-26のニュース裏読み - 裁判 責任能力が焦点

被告人(犯人候補 ― 刑事事件は被告人、民事事件は被告という)にも一定の人権があるのは当たりまえだ。江戸時代に許されたような拷問があってはならない。

 しかし被告人は被害者の心身に何らかの障害、損害、被害を与え、現代社会の規範に照らすと悪いやつだ。

 法律は人間社会にあっては最低の規範(ルール)でこれを犯すのは許されない行為である。電車の車内で老人に席を譲らなくても法律違反にはならない。

 席を譲らない行為はもっと上の規範である道徳にはもとるが刑法上は罰せられることはない。さらに上の規範としては宗教上の罪があり、心の中で邪悪なことを考えるだけで罪と判断されることもある。日本語にはないが、これを英語では「sin」と言う。

 そのように人間社会には何段階もの規範があるが、その最低のものが法律である。従って法律を犯すものは罰せられる。

 しかしどんな刑法上の重罪を犯したとしても、逃れる方法がある。それは犯罪に対して責任能力がない、即ち精神異常の場合だ。その罪を犯した人物に行為の善悪や是非を判断する能力がないとされ、程度に応じて心神喪失、心神耗弱と称し、罰を免れるか別の罰則手段が取られる。

 物の善悪の判断ができない人間を罪に落とし罰する社会的必然性の是非が問われるだろうし、刑務所の費用が掛かることも判断材料にはなっているだろう。

 刑事罰の意義は「見せしめ」と「教育」があり、与えられた罰を考えその恐怖感から実行予定の犯罪を踏みとどまることがある。これが「見せしめ」効果だ。

 一方「教育」は犯人に改心する心を植え付け、二度と犯罪に手を染めないよう教育することに拠り、犯罪を防ぐ効果が認められる。

 しかし例えば、脳に犯罪を抑制することができない何らかの傷があれば、上記の「見せしめ」や「教育」の目的は決して達せられることはない。アメリカではそんな脳を持っている人間が発見されているらしい。

 彼はどんな罪を犯そうが、罰せられることはない。そしてまた犯罪を繰り返す。心神喪失、心神耗弱も同じカテゴリーに入り、罰せられないか軽減される。

 この考えは日本でも古くから文献に載っている。それは罰を免じる一つの判断材料だが、被害者側は堪らない。観点を変えて見た場合は違う判断も存在する。人道主義と称し、感情的に犯罪者の人権を過度に声高に主張する団体もある。

 今は犯人の人権を過剰に保護するような風潮があるように見えてならない。責任能力がないと判定された場合、犯人は精神病院に入れられて、一定の治療の後退院し、また犯罪に手を染める。そんなことが起っていいのだろうか。

 こんな犯罪者には何等かの処置を施さないと、被害者は浮かばれない。身内が殺害されたら、人権団体も考えを変えるかも知れない。こんなことは許されるのだろうか。犬、猫、熊のように殺処分とまではいかなくても、何らかの罪を課す必要は絶対にある。

 ところで検事など犯罪を取り締まる側が無罪である証拠を持っているのに故意に出さなかった場合、もし犯人とされた人に死刑が宣告され、実行されればどうなるのだろうか。私はその検事は殺人罪の実行犯だと思うのだが、どうだろうか。今、そんな事案があるようだ。

酒巻 修平

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