5ページの日本歴史(全一回で終了)

歴史とは文字で表したその時代の出来事である。従って文字が発明される前は先史時代と呼ばれる。それはここでは取り上げない。

ただ日本の近くには今は中国と呼ばれている国があり、そこでは紀元前何世紀か前にすでに文字があったので、日本の歴史の一端が読み取れる。しかし歴史を文章にした人は伝聞によって書いているので、そのころの日本の歴史の真実かどうかは検証するのはできない。

元日本人はどこから来たのかということは不明だ。中国の書物によっても明らかにすることができないが、おそらくシベリア、韓国、中国、コーカサスなどからの移民であったのは確からしい。

紀元前1世紀ころ日本の歴史は始まる。前漢地理誌によると朝鮮半島の近くの海には「倭人」と言う国または民族が住んでいた。100くらいの小国家に分かれていたが中国に朝貢して、服従していた。

239年に卑弥呼は、魏志倭人伝に現れる邪馬台国の女王で、魏に使者を送った。3世紀この大小の国々は四世紀の半ば頃にかけて次第に統一されていった。近畿地方の大和(奈良県)に起こり天皇を中心にまとまっていた大和朝廷だ。

5世紀頃になると天皇の勢いは非常に強くなり、死ぬと大きな古墳を作った。日本最古の書物古事記によると最初の天皇は神武天皇だが、定かではない。

大和朝廷は主として韓国からの帰化人によって中国や朝鮮から文字・仏教・儒教などや建築・鍛冶・織物・養蚕など様々な優れた文化、技術を取り入れた。

5世紀の終わり頃有力が豪族は大伴氏・物部氏・蘇我氏などだ。物部氏や蘇我氏らは勢力争いをした。その間天皇の勢いは次第に衰えていったので、聖徳太子はその状態を元に復そうとした。

まず冠位十二階や憲法十七条で国の政治を整え仏教を盛んにして法隆寺などを作った。一方、遣隋使を送って大陸の文化を取り入れようとしたが早世した。

645年聖徳太子の考えを引き継いだ中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我氏を滅ぼして地方政治の仕組みなどを次々に整えていった。これが大化の改新だ。

710年に元明天皇が奈良平城京に都を定め奈良時代と言われた時代には、7世紀の半ば過ぎには天皇の位を争って壬申の乱が起りその後次々と天皇が変わったが天皇中心の国の仕組みは固まった。天智天皇や天武天皇が政権争いをした。

712年に成立した古事記は膨大な量の出来事を記憶していた稗田阿礼が口述し、太安万侶が編纂した。朝廷は転々と奠都を重ね、平城京を中心とした貴族・仏教文化が勃興して天平文化が花開いた。日本書紀(歴史書)、万葉集(和歌集)、風土記(地理書)、懐風藻(漢詩集)が作られた。

794年桓武天皇が京都市中心部の平安京に遷都して、平安時代が始まった。奈良時代には空海の真言宗、最澄の天台宗などの宗教ができ、漢字から平仮名、片仮名が考案された。

801年には征夷大将軍の坂上田村麻呂は蝦夷を征服し、894年には菅原道真が弱った隋への遣隋使の派遣を廃止した。そのころ富士山が大噴火を起こした。

890年年代後半には日本最古の物語「竹取物語」、紀貫之による「土佐日記」、世界最古の恋愛小説「源氏物語」が紫式部に、清少納言の「枕草子」ができた。

900年あたりから朝廷を警護していた武器を持つ武士が力を付け始めた、結局それは明治維新まで続いた。平将門は勢力を持ち新皇と名乗るが2ヵ月後に討たれた。そして藤原道長の権力が拡大した。その後院政という上皇による政治が起こったが、平清盛が武士で初の太政大臣となり、1179年平清盛が後白河法皇を幽閉して勢力を伸ばした。

1181年ころ平清盛が病死するまで権勢並びなきものとなった平家に対して、以仁王が平家打倒を令旨したが、叶わなかった。飢饉で大勢の人がなくなり、後白河法皇は院政を再開した。源氏が天皇に後押しされて勢力を伸ばし始めた。

倶利伽羅峠の戦いで木曾(源)義仲が平維盛を破ると、平家が都を捨て西国へ敗走した。義仲は入京して征東大将軍となったが宇治川の戦いで敗死した。

1180年半ばころから始まる一の谷、屋島の戦い、次いで最後に壇ノ浦の戦いで源義経に討たれた平氏は滅亡した。以後平家の子孫は長く身を隠し隠遁の生活を強いられた。日本最古の漫画「鳥獣戯画」ができたのはこのころだ。

1185年、朝廷などに推されて頼朝が征夷大将軍になり鎌倉幕府を開き、武家政治が始まった。しかし頼朝の妻北条政子が裏に表に政府を牛耳り源氏の支配は3代で終わり、北条一族の執権政治が始まった。

1225年北条政子は死去。北条泰時によって日本初の武家法御成敗式目が制定され、江戸時代まで法律の基本とされた。その間後醍醐天皇が台頭し討幕計画を立てたが失敗した。執権は14代続いた後滅亡した、

1274、1281年、北条時宗が執権のとき元寇が日本を征服しようと来寇したが、日本軍の奮闘と神風と呼ばれる暴風雨で退却した。ただ外国との戦いでは分捕り品もなく、多くの御家人は幕府から恩賞が満足に貰えず生活に困窮した。

1333年後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒して京都に還幸し、天皇親政を復活したが、足利尊氏の離反にあい、2年半で崩壊した。

1338年に正式に京都に幕府を開いてから、15代将軍足利義昭が1573年に織田信長によって追放されるまでの235年続いた。

1331年後醍醐天皇が南朝を立てたが、3代目将軍足利義満の後ろ盾で、第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで北朝が勝利する。392年までの59年間は天皇家でも争いがあった。南北朝時代という。

1368年足利義満は謀略によって有力勢力を衰えさせ幕府の安定をはかった。しかしその後も戦乱は続き、足利時代も6代目になり、将軍が暗殺されて権力が衰えた。8代目将軍では応仁の乱が起こり将軍の権力は完全に失墜した。

1467年応仁の乱が始まったのは、室町幕府8代将軍の足利義政には跡継ぎ問題があって、それをまとめきれなかったからだ。

1550年ころ、各地に大きな「大名」と呼ばれる勢力が出始め、織田信長が現れた頃から戦国時代が始まります。 織田信長は天下統一の目前まで来たが明智光秀の謀反により死去した。その明智を倒した豊臣秀吉が天下統一を果たした。それで戦国時代は終焉した。豊臣秀吉は朝鮮に出兵をしたが病死し日本軍は撤退した。

1575年に織田信長が安土に居城を構え、豊臣秀吉が桃山に伏見城を作って文化を築いた時代は短くて、たった30年ほどであるが、この時代を安土桃山時代と呼ぶこともある。

1600年豊臣秀吉の亡き後、東軍の徳川家康と西軍、石田三成の天下分け目の戦いで、徳川家康は辛勝した。ここから江戸時代が始まる。これは主に家康が秀吉より長生きしたことが最大の原因だ。

1603年徳川家康は征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いた。このころから書いたものも多くなり、歴史が明確になった。 家康は親藩・譜代大名・外様大名を適切に配置して、将来の将軍後継者候補などに御三家(尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家)をつくった。 家康は2代目秀忠のときに謀略で豊臣家を滅亡させたが、財政難はもう存在した。キリスト教を禁止し、士農工商の身分制度を導入した。

3代目将軍徳川家光の参勤交代制度、鎖国、5代目将軍徳川綱吉の生類憐れみの令、8代目将軍徳川吉宗は享保の改革、10代目将軍徳川家治の治世のときの田沼意次の重商主義的政策、11代目の松平定信の寛政の改革、12代目時のアメリカのペリーの黒船来航を経て江戸時代は進んで行き、1858年アメリカと修交通商条約を調印した。徳川慶喜は将軍職を辞し、大政を奉還して250年ほど続いた江戸幕府が崩壊した。

1637年にはキリシタンの天草四郎ら島原の乱を起こし、1639年忠臣蔵で今も知られている赤穂浪士による幕府批判があった

しかし江戸期を通じて独自の文化が花開き、松尾芭蕉の俳諧や文学、絵画など日本独自の芸術が勃興した。この頃の文化を元禄文化という。奥の細道(松尾芭蕉)、好色一代男・日本永代蔵(井原西鶴)、曽根崎心中(近松門左衛門)、風神雷神図(俵屋宗達)、紅白梅図屏風・燕子花図(尾形光琳)、見返り美人図(菱川師宣)などがある。

1868年明治時代がはじまり、また天皇主体の政治体制が取られたが、実態は徳川に代わって、薩長が政権を握ったに過ぎない。薩長の上層部のもとは武士とも呼べないようなチンピラだったが、上層部は倒幕と明治維新のごたごたでほとんど死亡してしまい、政府を独占的に動かし、大きな権益を欲しいままにした。

日本は明治維新から富国強兵や文明開化で急激に近代国家へとなったが、武士がその地位を追われた。1874年、明治六年には政変で西郷隆盛・板垣退助・大隈重信などが下野して、大久保利通を首班とする政府と対峙したが、西郷隆盛は戦死した。大久保利通も暗殺され、明治維新を生き残った山形有朋ら上層部だけが貴族となり、以後第二次世界大戦で日本が敗戦するまで、薩長が政府や軍人幹部の独占が続いた。靖国神社は彼らのためのものだ。

1894年の日清戦争、1904年の日露戦争で勝利して朝鮮併合を行うなど日本は自らも列強になる道を選び、

東京~横浜間で電信が開通し、鉄道網も敷設され、郵便制度、貨幣単位を円・銭・厘の制度、廃藩置県、太陽暦を導入、国立銀行条例、徴兵令の創設、キリスト教の解禁、平民の苗字の義務化、電灯の点灯開始、東京株式取引所の開業、新橋~日本橋間で馬車鉄道が開業、日本銀行が開業、東海道線が全線開通され、ラジオ放送が開始と続いた。

1885年に伊藤博文が初代内閣総理大臣になったが、閣僚は薩長土肥のみだったが、総選挙が開始され、25歳以上の男子、国税15円以上支払っているものが選挙権を持った。日本は列強の一角になったが、欧米各国はそれに反対だった。伊藤博文がハルピンで安重根に暗殺されたのもこのころだ。

1912年大正時代に移り、普選運動・社会主義運動・労働運動・女性解放運動などの社会運動が活発となった。これを大正デモクラシーという。

1914年に世界初の大戦第一次世界大戦で山東省・南洋諸島を取得し、国際連盟の常任理事国となった。ソビエト社会主義共和国連邦が誕生するのを機に治安維持法により対象デモクラシーのあらゆる思想が弾圧された。

1926年昭和の始まりと共に世界的な恐慌となった。 その影響もあり関東軍が独断で満洲事変を起こしたが、世界五大国に上り詰めた日本は国際連盟から脱退して世界から孤立する。軍部主導の政治となり帝国主義が強化された。

1939年から6年日本は独伊と同盟を組んでアメリカなどと戦争をしたが、その表面的な原因はアメリカなどが日本に対して石油などの資源の輸出を禁止したことだ。日本は供給をアジアに求め、大戦が勃発した。日本はイギリス、オランダなどをアジアから逃走させたが、最後には物量などに勝るアメリカが広島、長崎へ原子爆弾を投下して戦争が終わった。ずるく条約違反のソビエト連邦は北方領土を不法占領した。アジアの国の多くは独立国となり、日本のお陰と今でも感謝している。戦争直前の1ドルは3円だったが、戦後は360円になった。

1945年に戦争が終わったが、またすぐ始まった朝鮮戦争の特需にも助けられ、急速に経済発展した。日本は再び世界の重要国になった。

1953年NHKがテレビ本放送を開始し、新しい文化の時代が幕開きした。その後のコンピューターの導入から多種多様な利用法が考案され更に次代に受け継がれ、生活に大きな影響を与えるものと思われる。

1986年に始まったバブルは歴史を勉強しない橋本龍太郎、宮澤喜一、三重野 康などの失政で、1991年に崩壊し、北海道拓殖銀行、山一證券が破綻して、20年ほど経済成長のない時代もあった。ドル/円の最高価は75円だ。

1995年の地下鉄サリン事件など多くの事件も発生した。世界はますます交流を深め、経済、政治、文化などが複雑に絡み合う世界が出現した。

領土問題も噴出し、中国、韓国は国民の政治批判を躱すため日本に目を向けさせる政策で、領土問題が噴出した。日本はアメリカと友好関係を結び、大統領、バラク・オバマが広島を安倍首相が真珠湾を訪問した。英国がEUから離脱した。

現在は移民問題、社会福祉、男女同権、政治不信、将来への不安など、過去にはなかった大きく根が深い問題を抱え、政府は対応できないでいる。

酒巻 修平

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