神はいるのか - 自分だけの神を持て

神という存在はあるのか。宗教の大きな命題である。神は見ることもできないし、手で触ることは勿論不可能だ。

 キリストの像やお釈迦様を拝む人はそのような像を神と考えているかも知れないが、それは昔から偶像と言われている。

 しかし神がいないとも言い切れない。宇宙全体を包含する大きな存在なのか、心の中でひっそりと見守っていてくれている見えざる精神なのか。神はいるように思える。

 神を信じると心が綺麗になり、精神が落ち着く。広い心や克己心が芽生える。しかし信じているのが本当に神なのか、神のみぞ知るとも言える

 キリスト教の神は人という子羊は全て平等だと教え、イスラム教では富める人は貧しき者に施しをしなさい。仏教は許す心を持てと諭すが、それが神から出た言葉かどうかは確認をする方法がない。

 しかし神の存在は物とは違った人の精神や心などに宿るように思われる。そうであれば神はそんな人の心に関係があるのではないかと探す。しかしいない。青い鳥を探し回ったチルチルミチルの心境も理解できるというものだ。

 犬や猫、菜の花にも神は存在するのか。彼らは大宇宙の確かな存在と動きを神と感じているかも知れないが、人には見えないし、誰にも見えない。

 人は死んだら神になるのか。そうとも言えないが、死者の魂は子孫の傍にいて見守っているとも思える。やはり神は見えない存在なのだ。見えないが、存在するのであれば何を神と思えばいいのだ。

 見えないならば物体ではない。即ち身体ではない。人は父母の二体から生まれ出でたものであるので、身体でなければ精神や心や魂などの無形のものに宿るのではないか。

 神は見えない。存在を確認できない。何を我々に求め、どのように救済してくれるのかも分からない。全てが謎だ。確かではないが、自分の心には必ず神は存在する。

 神のいる心を持ちたいと願うのであれば、神を確かなものにしたい。できればいつも自分と一緒にいてもらいたい。そんな願いを叶えてもらいたい。それが人というものだ。

 それでは自分の心で神の存在を確かなものにしてはどうだろうか。釈迦にも頼らず、キリストにも頼らず、自分自身で神の存在を確立させるといつも神は自分と共にあるではないか。

 そんな不遜なことはできないと言われるだろうか。それは違う。神は人の自由を尊重し、あらゆる行動を許してくれるなら、心の中に自分だけの神を作ってもいいではないか。

 そんなことができるのであろうか。人の精神は全て違う。違うのであれば、自分が好むような神を作って、持てばいい。

 亡くなった近親者の霊、澄み渡った空の大きさ、友達からの愛、隣の優しいおばあちゃんの気持ち、なんでもいい。自分の中で貴重を思うものの集合体に神を求めてはどうだろうか。

 自分自身の心でもいい。ある日の親切心でもいい。辛さに耐えた精神力でもいい。神はどこにでもいるし、自分の気持ちが変われば神の様子も形も変えればいいじゃないのか。

 私は絶対に嘘を付かない自分の心が神の一部だと思うし、昨日の発声の良さもそうだ。電車で席を譲った時のおばあちゃんのお礼の仕方。全てが神だ。

酒巻 修平

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