社会は人の悪性格で動いている
カトリックの七つの大罪をみてみよう。カトリックにおける考えが世界の全ての人に当てはまるかどうかは疑問である点も考えなければならないだろうが、そもそも宗教とは人の精神の安寧を考える文化である。そのことを考慮に入れるとこの七つの大罪は全ての人の心に存在する悪の精神であろう。
もちろん人は悪の逆、善を施すことも多い。これは人の二面性を表す。人には裏表があり、それを非難する人もいるだろうが、このことは人という存在の元になっている心であるから、全面的に批判しても始まらない。
むしろそんなことを踏まえて人と接することこそ大切ではないかと思う。連続殺人鬼も路上生活者に食糧を恵んでやることもあるだろうし、逆にいかなる善良な人も姦淫を心の隅では望んでいるだろう。
善を実行するには自身が満足する生活を送っているということが前提になるかと思うと、困窮している人が却ってもっと困っている人を助けるという話しも良よく聞く。
だが善は実行するのに努力が必要である。自分の心の内に持っている善の部分は大きい心とそれを成し遂げる精神がなくてはならない。
悪を成すのは簡単だ。自分の心のままを形に表せば悪は簡単に実行できる。近所の悪口、同僚への誹謗、政治家の国家財産の横領、下着泥棒、覗き、どんな種類の悪も絶えない。
石川五右衛門が豊臣秀吉に処刑される前に言った「石川や 浜の真砂へ尽くるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」とは考えれば至言である。
前置きが長くなったが、カトリックの七つの大罪とは
傲慢
強欲
嫉妬
憤怒
色欲
暴食
怠惰
である。もちろん人の悪は七つに限定できないので、他にもある。
欺瞞、殺人、蔑視、復讐、違約、無法、などなど数えればきりがない。善の方も沢山あるが、悪を表す言葉より少ない。カトリックではこの七つを代表的な大罪としている。
宗教では実行しなく考えるだけで罪と見なすので、宗教的には全ての人が罪を犯しているとみなして良い。
大体税金とはどのようにして成立したか考えれば分る。農民を働かせ、上層階級の人物が生産物を搾取することから始まったではないか。
農民を働かせるためには生きていてもらわなければならない。だから搾取と言っても農民が死なない程度に行う。
搾取する側は傲慢で、強欲だ。嫉妬心が強く、自分が長になりたくてライバルを蹴落とそうとしている。これは政治家だけではない。会社内においても行われていることだ。
グルメなどを追いかける女性も多いがこれは暴食の一種だろうし、自分で働かない女性に多い。この種類の女性は暴食で怠惰である可能性が高い。
殺人は憤怒に基づくことがまず考えられる。色情に至ってはこれがないと人類は滅亡する。宗教家は一体何を考えていたのか。そのうち自分たちもこの色情を実行に移すために結婚することが許されるようになった。
人には小さいが能力差がある。この能力差が種々の社会現象を起こし、またそれがなくては文化、文明は開化しなかっただろう。
能力の高い人物は多くの悪の心を持っている。これが社会を活性化させ、収穫物を能力の低い人に残すことが社会の姿ではないだろうか。
共産主義はそれを否定したが、その結果は見ての通り、ソ連、ベトナム、キューバ、モンゴルの社会は裕福ではなかった。中国も同じ道を辿るだろう。
共産党の幹部が贅沢な生活をし、国家の財産を奪う。それを嫉妬し憤怒の心を持った人民は悪の心を実行に移すだろう。共産党はいずれ崩壊するだろう。
悪の心を如何にコントロールするかが社会の安寧をもたらす。だが悪は必ず実行されるだろうし、人はそれに耐えながら生きていかなければならない。
酒巻 修平