酒巻修平の半生記 3 ー 朝鮮戦争勃発

朝鮮戦争は私が8歳の時に勃発した。表面的には今の韓国と北朝鮮の戦争であるが、それはアメリカ対中国の代理戦争であった。

 日本の敗戦の色が濃くなったころにはすでに中国やソビエトが標榜する共産主義がアメリカの民主主義と対立する様相をすでに呈していた。

 それが朝鮮戦争となって現れたのだが、経済的に漁夫の利を占めたのは日本であった。日本は戦争特需により敗戦で疲弊していた経済を立て直した。

 私が中学校に入学したのは戦争が休戦したころであった。経済全般は良くなったが、個々の家庭はまだそんなに豊かではなかった。我が家はその中でも最貧困な家庭の一つだったと思われる。因みに朝鮮戦争は今も休戦状態で、終戦はしていない。

 私は仕方なく、新聞配達をしたが、反面兄に誘われて昆虫採集に熱中した。新聞配達は若い私には過酷で、朝3時に起き、4時半ころから配達する。

 配達所は自転車を支給してくれないし、私も持っていなかったので、歩いて新聞を配った。大体2時間ほど掛かったと覚えている。

 一度配達員のおじさんが貸してくれた自転車をひっくり返して、酷く叱られたことがあった。自転車は当時まだ貴重なものであった。

 昆虫採集では初心者は蝶の最終から始める。どこかの山で最初「オオムラサキ」という国蝶になっているのを取った時は嬉しくて目の前が霞むほど茫然となった。榎から榎へ飛んで来る時に網を振るったら偶然入ったのだ。

 今は方法が分かっているし、採集するのは困難ではないが、まだ中学生の私には非常な貴重品であった。飛ぶのが早く大きな羽は紫色に光っている。国蝶に指定されるのに相応しい美麗な種類だった。

 今まで生きて来た半生の中でこのオオムラサキを採ったことが一番感動したことである。志望大学に合格したことなどこの時の感動に比べれば、小さな出来事だ。それほど私は昆虫採集に没頭した。

 高野山まで行くと棲息している昆虫の種類も多いので行きたいが、そこまで行く電車賃がない。仕方がないので、近所の生駒山が主とした採集場所だった。ある時その山の暗がり峠というところで兄が「ウラジロミドリシジミ」というシジミチョウ科の珍しい蝶を採集した。

 そんなことは言わなければいいのに、私か兄が誰かに自慢たらしく話したのだろう。翌年には50人くらいの人が採集に来ていた。その蝶の幼虫はクヌギを食べるのだが、そのクヌギが暗がり峠には数多く生えていたからだ。

 一度お金が全くなくて採集に行けない。しかし行きたい。ジレンマにかかった私が取った方法は歩いて生駒山に行くことだった。片道30kmほどもあったと思うのだが、朝3時ころに起きて10円だけ持って歩いて行った。それから山に登り採集してからまた歩いて家に帰った。疲れていたが、家では芋粥を作って待っていてくれた。美味しかった。当時の10円は今の100円くらいだと思うが、コッペパンを一つ買えた。

新聞配達をしているので授業中はいつも寝ていた。順番に先生が質問して私の番になるとはっと目が覚める。だから私は勉強のできない生徒だった。

 どういう良い事情が家庭にあったのか、新聞配達は一年ほどで辞めた。それからは授業中も眠くなくなり遅れていた勉強を取り戻した。

 こんなことがあった。ある夏休みの宿題で私は自分が採集した蝶を標本にして提出した。当時優秀な作品は表彰されることになっていたのだが、私は絶対に一番になる自信があった。なにしろ毎日考えることは蝶の採集ばかりだったからだ。

 ところが私の作品は二等賞だった。一等賞はある鉄工場を経営している英語自慢の生徒が取った。見ると美麗な蝶が形も美しく標本にされていた。これでは勝てる訳がないのだが、その蝶は全て台湾産のもので、一等賞を取った生徒も台湾に行ったことがあるとは思えなかった。

 多分デパートで買ってもらったものだと見当を付けた私は近くのデパートに行くと同様のものが沢山売っている。これだと思った。考えてみると私も執念深いが、相当悔しかったのも事実だ。

 私は理科の先生にクレームをした。昆虫採集では先生より私の方が上だ。標本の蝶がどこの国の産かくらいは分かる。しかし先生は「君が悔しいのは分かる。しかし友達をそんな風に言う君の根性は悪い」と私を非難した。それから私は先生という人を信用しなくなった。

 理由が分からないのだが、学校の劇で私は三枚目の役をやれと頼まれた。私は二枚目ならいいが、三枚目は嫌だと、ずっと断っていた。ところが学校は兄(一学年上)を通じて口説きにかかった。到頭仕方なく、役を引き受けた。どんな仕立てだが忘れたが劇は何度も行われた。役を受けたからには頑張ろうと一所懸命喜劇俳優を演じる勉強をした。

 最初舞台に出ると何か観客の生徒や先生に向かって面白いことを言っていた。そうするとみんなが笑う。笑うものだから、もっと笑うことを考えて言う。そのうちに私が舞台に上がると観客はそれだけで笑う。当時の人はよく笑ったのだろうが、今考えると私は喜劇役者の素質があったのではないかと思っている。

 それが後年役に立った。アメリカ人とビジネスをしている時に笑わしてやるのだ。面白いやつだと思ったのだろう、ビジネスはとても上手く運んだ。

 勉強もそこそこやったのだろうが、私は生野高校という当時2流の公立高校へ入学した。中学校の生活はそれなりに楽しかった。

続く

酒巻 修平

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