立派な鞄が道路の真ん中に落ちている

まだ会社がほんの零細企業であったころ、会社の入っているビルの道路を挟んだ向かえに何件かの居酒屋があった。私は大阪出身なものだから、お好み焼きが好きで、親子がやっているお好み焼き屋によく行った。

一人で食べて飲んで今の金額に直すと3000円くらいだったと思うのだが、そこで1,2時間時間を過ごした。常連の人が多く、自然にその人たちと話をすることになり、名刺も交換した。

その一人が隣のビルに入っている会社の社長だった。お好み焼き屋によく行くくらいだから、そこも零細企業で、色々と苦労話を交わした。とても気の良い人で、その後その会社は成長して、他人事ながら嬉しかった。

ある日私が所要で外出する時にタクシーを乗ろうとした。ふと見ると道路の真ん中に立派な鞄が落ちている。というより忘れ去られたように厚底を下にして立っていた。

大変だ。こんな立派な鞄を置き忘れてどうしたのだろうと、訝ったが、タクシーに乗る時何かの拍子で、路上に置いて取り上げるのを忘れたのだろうと推測した。

誰かに拾われて持って行かれては持ち主の人が難儀するだろうと、私はタクシーに乗るのを一時中断して、その鞄を事務所に持って帰った。持ち主の名前は見えるところにはない。

仕方なく、鞄を開けると中からは沢山の手形が出て来た。自社のゴム版と銀行取引印らしい印が押してある。所謂白地手形で、金額欄が白紙だから、どんな金額も記入できる。

悪い人がこれを利用するとその会社は倒産する。もっと調べてみると名刺が何枚も出て来た。読むとお好み焼き屋さんで仲良くなった社長さんのものだと分かった。

私もその社長さんの名刺をもらっているし、私のも交換している。名刺にある電話番号を早速鳴らした。出て来たのは社員らしい人で、私は咄嗟にこの件を話してはいけないと判断した。

社長のそんな忘れ物を社員に知られると拙いと信じた私は午後の用事を明日に回して、午後何度も電話を掛けた。しかし出て来るのはいつも同じ社員で、何度も電話をするものだから、要件を聞かせてくれと言う。

要件は言えないものだから、適当に言葉を濁して、夕方7時くらいに電話をするとやっと社長が電話元に出てきた。聞き覚えのある声で、お好み焼き屋に行きたくなったほどだった。

私は自分の名前を名乗り、いつもお好み焼き屋でお会いしていますというと思い出したらしく、「やあ、いつもはどうも」とか挨拶をしている。その声には心配事があるトーンはなかった。

私は悪いやつだから、このまま鞄を返すより少し遊んでやろうと悪戯心が湧いて来た。「社長さん、何か心配事でもあるのですか。声にいつもの張りがありませんね」。

そう言うと「いえ、何もありませんよ。何でそのようにおっしゃるのですか」とその社長。「いや、お困りになっていることがあるでしょう。私は知っていますよ」「心当たりがないんですが」「そうですか。ご自分の胸に手を当てて、お考えになったらどうですか」

そう言っているのに私が鞄を拾ったことにまだ気が付かない。勿論自分がどこかで鞄を忘れたのを気付いていない訳がない。「社長さん、正直になって下さいよ」「正直も何も、私には心配ごとなど何もないんで、正直になりようがありませんよ」

もう仕方がない。私はばらしてやろうと思った。「鞄ですよ」とその後どのように言ってやろうかと考える前に、「えっ、あの鞄、どこにあるのか知っているのですか」とやって本音を吐いた。

「私だから良かったのですよ。誰かに持って行かれたらどうするのですか」「いや、申し訳ありません。で、今そちらにあるのですか」などと声が上ずっている。やっぱり心配していたのだ。

「私がお預かりしていますよ。社員さんにも内緒にしてありますからご安心下さい」。会話を聞いていた我が社の女子社員はにやにや、ことの成り行きに興味を示している。「うちの事務所はご存知ですか。隣の第二京浜ビルの4階の突き当りが事務所です」。そのように言うとありがとうございます。すぐ取りに行きますと言うが30分も来ない。

やがてノックの音が聞こえ、私が出るとその社長がペコペコしながら、事務所に入ってきた。鞄を渡すと「詰まらないものですが、皆さんでどうぞ」と言って菓子折りを2つも差し出した。

菓子折りを女性社員に上げて、社長を送り出した後、私は大笑いした。仕事を終えて女子社員を連れて、お好み焼き屋さんにいった。今日のことを面白おかしく話してあげようと考えた。話始めると何とその社長が入ってきた。それから大笑いをしながら、座が盛りあがった。社長は我々の分の勘定も払った。面白い一日だった。

酒巻 修平

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