記憶、思考、ひらめき

物事に対応する脳の働きには記憶、思考、それにひらめきがある。その中で記憶は一番単純な作用である。取得した情報を保存しておき、必要に応じて引き出し利用する。

 思考は保存されている情報を分析、組み立てなどを行うより高い次元の働きである。それに対してひらめきは今の私には解析できないが、事物の創造に寄与する。

 脳の機能、作用の詳しいことは分かっていない。記憶はどこで行われるのか計算や思考はどの部分が司っているのかなど、表面的なことは実験的に解明されているように思われるが、それがいかなる機械的、分子的に作用を及ぼしていくのかについては全くと言っていいほど分かっていない。

 今後はこうした体の作用の詳しい解析なしには医学、進化論、感情などの説明は行えないし、人を含む生物の全体像を把握することは不可能である。

 短距離と長距離の競争では使用する筋肉の部位が微妙に違い、どちらにも対応できる選手がいない。これは必要とされる筋肉の違いもあるが、ある一定の筋肉部位を強化すると他の部位の能力が低下するためだ。

 同様に記憶に偏重して脳を使用すると思考やひらめきの能力が後退する。現在の学校教育が受験のための記憶重視の傾向があり、そうすると思考やひらめきの能力が後退するので、どんな優秀な学校を卒業しても仕事ができない理由である。

 大企業はこれに対応するために、仕事を記憶だけでやれるように、かなり色んなことをプログラム化している。大企業を辞めて中小企業に入社するとそこでは大企業ほど、システムができていないので、仕事が全くできない人が非常に多い。そんな話をよく聞く。

 今の若い人は物を考えないと年配の人の不満が聞こえてくるが、もう少し学校教育のありかたを考えないと、人の脳の働きは記憶に偏重して、大きな負の社会現象を引き起こすと考えられる。

 しかし記憶するということにも大きな長所がある。それは経験していると同様の仕事をこなす速度が速いということだ。例えば取引先の電話番号を記憶していれば、いちいち電話帳から探し出したり、ネットで調べるということをする必要がないなどに現れる。

 思考はその記憶された情報を分析、組立の用に供される。記憶と違って物事を処理するには時間が余計に掛かる。しかし経験したことのないこともできたり、記憶の範囲を越えて、物事を処理することができるので、非常に便利なツールである。

 昔は受験技術などを学校で教えなかったので、生徒は全て物事を思考で処理した。だから優秀大学の卒業生は仕事も良くできた。記憶は単純な脳の作用なので、訓練しなくてもある程度はできる。必要に応じて情報を記憶していけば事足りた。

 ひらめきは脳の神秘である。これがどのような回路を使ってなされるのかは全く不思議だ。しかしひらめきにより文化は創造されたし、多くの新しい物事を構築された。作曲がどのようにしてできるのか、私にはその能力がないので、作曲ができる人に聞いてみると、そんなのは簡単だと一蹴される。

 それはそうだろう。記憶や思考は脳を意図的に働かせなければならないから、それなりの努力が必要である。かたやひらめきは努力なしに脳が勝手に現出する。

そこには何の努力も介在しない。

 記憶や思考は随意的で、ひらめきは不随意的であるようだ。だからどんなに努力してもひらめく能力がない人はその作用を使うことができない。腸や食道の蠕動や心臓の鼓動は不随意的だから、意図して動かすことができない。それと基本的な作用機序は同じなのだろう。

 記憶に長けている人は思考もできるように思われるし、思考に長けている人は何かの具合でひらめきを得ることができるように思われる。脳は本当に不可解な臓器だ。その生物学的あるいは分子工学的なアプローチがなされなければ、謎は謎のままだろう。

 思考は記憶より総合的には便利で有効範囲が広い。受験勉強を合格技術に頼らないで、思考能力の鍛錬により行って欲しいものだ。有名大学を卒業しても、仕事ができなければ何にもならない。

 年配の人は人が進化せず、退化しているという。そんなことのないように脳の友好的な使用を考えたいものだ。江戸時代の商人の格言にも「働き1両、考え5両」と言うのがあった。考えると単純に仕事をするより、5倍も儲かるということだ。

酒巻 修平

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