出世払い
戦前(第二次世界大戦前)は出世払いという飲み屋に対する支払い方法があった。飲み屋とは今の居酒屋で、当時企業はこんな小規模な事業を見向きもせず全ての飲み屋は個人が経営していた。
一流大学に通う学生は飲み屋にゆくとその場または1か月に一度という支払い方法を取らない人もいた。上に述べたように出世払いということで、就職してから支払いを始める。
このころの店は長くやっていることが通例になっていて、店側は学生が卒業して支払いにやってくるのを信用して待っている。
そんな学生は卒業すると必ず大会社に就職ができて、いずれ彼らは係長、課長、部長、役員と年功序列的に地位が上がった。当時の大会社の部長クラスのボーナスは半期で5000万円程度であった。
半期で家の一軒も買えるボーナスを手にしていたのだ。税金は大体10%くらいだからボーナスが出ると部長は100人とかの部下を連れて飲みに行った。ボーナスを一晩で使い、すっきりとした気持ちでまた仕事に励む。
勿論新入社員はそのような訳にいかないが、それでも大学卒業者は学士様と呼ばれて、一般の人からは一段高い社会的な地位にいた。
入社するとすぐにアシスタントが付き、実際の業務は慣れて覚えるまでそのアシスタントから教わった。壁際には給仕が左腕にナプキンを掛けて待機している。
社員から「お茶」と声が掛かると給仕はお茶を入れた。
新入社員にも勿論ボーナスが出る。最初は100万円くらいだが、その人はそのボーナスを持って飲み屋に支払いに行く。だいたい3,4回で学生時代の出世払いの金額の倍くらいを支払う。
飲み屋側は元学生の就職 ―即ち出世― を祝い、元学生はそれ以降その飲み屋の常連となる。チップを毎回払うのが通例だ。
勿論元学生でも途中で脱線して、出世ができない人もいるが、飲み屋側では支払う人の分で充分元が取れている。
これは夢物語ではなく、当時の社会の実話だ。私が大学を卒業したころ大会社に就職した友達はすぐに女性のアシスタントが付けられたと語ったのを覚えている。
これは戦前の話ではない。前回のオリンピックが東京で開催されたころの話だ。今の若い人からすると大昔の話のようではあるだろうが、我々に取ってはつい先ほどのことのようだ。
私が新入社員だったころ、キャバレーによく行った。給料前になると小遣いが底を突いている。それでは止めればいいと思うだろうが、飲みたいものはどうしても飲みたい。
当時キャバレーではワンセット650円で、ビール一本とおつまみが付いていた。こちらは1000円くらいしか手持ちがない。だからビールなのにちびちびと飲んでいる。
それを見とがめたキャバレー嬢が「どうせ給料前でお金がないんでしょう。今日は私が店に支払っておくから、給料が出たら返して」とか言って勘定を立て替えてくれる。だからビールを4、5本追加して、2,3000円の勘定をその女性に借りておく。
給料が出て2,3日経ってからまたキャバレーに行き、チップを含めて倍くらいの金額を支払った。キャバレー嬢は何事もなかったかのように「ありがとう」と言って、この取引は目出度く完了する。
そのころホテルでは前払いの制度などはなく、客がチェックアウトのときにホテル代や食事代を一括して支払った。そこにはホテルと客の信頼関係が成立していた。
世の中の信頼関係が消滅したのはいつのころかは覚えていないが、今ホテルでは金額の記入がないキャッシュカードを切っておく。勿論客が万一支払い不能であることを想定してのことだ。
酒巻 修平