死後の生活が存在することの科学的証明へのアプローチ

死後の自分自身と生活が存在するかということは古くから論議の的になっている。ある人は超自然現象として存在すると言い、ある人は一笑に付す。しかしそれらはその人の考えや人生観であり、証明されたものではない。

 人には自分の経験や存在を確認するのが最大の関心事であり、それがなくなる死というものの到来を非常に恐れる。

手がなくなり、脚が使えなくなれば大きな悲しみに陥るし、病気は心の快活さを失わせしめる。しかしそれらは死の恐怖と比べると全く小さいものである。死は全ての記憶を取り去り、自分の存在そのものに対する意識をなくす。

 人の脳は記憶し、思考し、創造する。思考することができなくても、あるいは創造能力が欠如していても、ある意味の苦悩はあるが、記憶の消滅への恐怖と比べると小さい出来事である。

 アルツハイマーはその記憶に障害が出る病気であるが、初期のころは自分自身は存在し続けるということを認識しているので、死の恐怖と比較するとまだ救われる。

 さてそれでは記憶とはどういうものだろうか。分析してみると記憶はデータの処理であると言える。自分がどのようなデータを取り込むかということはここでは取り上げない。

 記憶は、データのインプット、保存そしてアウトプットが正常に働くことで機能する。データのアウトプット、即ち取り出しの反応が鈍いと、それは度忘れ、老化などと言われるが、そこではインプットは正常に行われるので、アルツハイマーとは違う。アルツハイマーではデータの取り込み、保存、取り出しの全てが機能しなくなる。

 コンピューターの機能を考えてみよう。コンピューターには記憶装置があり、インプット、保存、アウトプットが行われる。しかしコンピューターが廃棄されるとき保存されたデータは次のコンピューターに移管される。

 コンピューターの廃棄は人の死と意義が同じであろう。だからコンピューターのデータは廃棄されない限り死がない。これと同様に人が死んでも記憶が移管され、それがアウトプットされることができればコンピューターと同様に、死というものがなくなるのではないかと考えられる。

 話が変わって、ラフカディオ・ハーンが激賞したブルワー・リットン著の「幽霊屋敷」という怪奇小説がある。期待して読むと何のことはない単なる幽霊が出現するという話であったので、前半を読んだとこでもう止めようと思っていた。しかし読み続けると後半になって、超自然現象がいかなるものであるかが書いてあった。それは死後の世界について触れていて、論理的であり、非常に面白かった。ハーンもこの部分を激賞したのだろうと思った。

 そこでは霊魂が他人や物に乗り移す様が説明されている。では霊魂とは何であろうか。この霊魂が考察の対象になる。

 コンピューターと同様人の生体の制御は電気信号でなされている。データの保管、インプット、アウトプットあるいは内臓の諸作用、筋肉の動作など人の全ての器官の作用は電気的、二進法的に処理される。

 電気は光と同じ速度で移動するが、電線で移動場所を決定するのが可能である。しかし電線がなくても無差別に移動する。だから電気信号で処理されたデータも移動すると考えて良い。

 人が死んでもこの電気信号はすぐには消滅するものではないだろう。消滅する前に他の人に移管されるとその記憶データはそこで保存され、保存を担った人の機構によりアウトプットされる。

 しかしながら死んだ人の電気信号は更改されることがないので、全て過去に経験したことが死後の生活の全てである。

 これが霊魂とか超自然現象と呼ばれる現象である。一旦人の脳に保存されたデータはその人が生きている限りそこに存在していて、その人が死ぬとまた上記と同様次の人に移管される。

 そしてこの電気信号がいかなる態様で存在し、処理されるかを研究すると生、死、病気、人体活動の全てが解明できる。死は生の一つの状態とも言える。

 ここでアプローチと言ったのはこの証明をするための考え方の元を示したに過ぎないからで、真の証明は実験や考察の改善によりなされる。

酒巻 修平

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