ビアフラ少年が体重72㎏になる

 父の家系には喘息持ちが多い。父も喘息で死んだし、祖父、子供、何人もこの持病が遺伝した。

 私は小学校に上がるまでに二回も肺炎に罹り、入学式にも出ることができなかった。肺炎の所為か子供のころから体は弱く、特に中学校に上がってからは発作にいつも苦しめられるようになった。

 そのころどんな治療をしていたのか忘れてしまったが、薄っすらとした記憶では薬も飲んでいなかったようだ。

 発作が始まると1週間くらいは寝たままだ。食事をすると息が苦しくなるので、水くらいしか飲めない。年を重ねるに従って病状が重くなり、指を動かしただけで苦しさが増す。

 中学校に入ると家計を助けるために新聞配達のアルバイトをした。当時は確か250部くらい配達していたと記憶しているが、これが子供には重い。発作が出ているときは本当につらく、よく腰に手を当てながら配った覚えがある。

 ただ中学生の体は柔らかく、気管にも弾力性があったのだろう。発作が出てもそんなに苦しくなかったが、後年体が硬くなってからは苦しさが増した。

 お金がある時は医者に行き、アフェドリンという注射をしてもらう。最初は効いていて、注射をすると30分くらいで、ケロッと治った。しかしだんだんそれも効かなくなり、錠剤を飲んだり注射をすると病状は悪化して、窒息死するのではないかという状態になってきた。

 それでも頑張って大学に入った。そこで部活をすることになったのだが、合宿に行くと発作が必ず出た。発作の原因には神経的なものが含まれていると後で聞いたが、皆が練習している間部屋で座って何もしない。寝るより座っている方が楽だからだ。

 発作で寝る時は横にならない。枕におでこを付けて俯いて寝る。肺を圧迫しないためだと思うが、これは自然にそうなった。そんな恰好で寝るものだから、そのうち猫背になり、今でもそれがひどい。

 顔は病的に真っ青だし、大学当時41kgしか体重がなかったので、部活の友達は私を「ビアフラ」と呼び、それが綽名になった。貧乏だし、顔色はいつも土気色をし、ズボンの膝のところは破れている。

 大学に入っても家計は火の車だ。アルバイトは何でもした。段ボールの回収、丸太運びなどやったが、当時はアルバイトの口が少なく、仕事の選り好みはできなかった。

 

 そんな中家庭教師のアルバイトは一番良かった。私は教え子の女の子を大学に入れたが、大学卒業後その女の子を好きになった。でも私のビアフラ具合に母親が交際を禁じ、まんまと失恋した。

 就職しても会社は一年間に30日も病欠した。だから馘首寸前の劣等社員だったと思うが、それでも33歳までは勤めた。

 そのころまでには発売されている薬の種類は増えたが、薬を飲んでもなかなか効かない。最終的にネオフィリンとアストーンを一錠ずつ飲むと効果があると発見して、それからはこのコンビネーションで発作に対応した。

 ある日ネオフィリンが切れていたのを失念していた。その時に発作が出た。仕方なくアストーンを2錠飲み、何とか寝たが起きると呼吸が非常に苦しい。呼吸困難で意識が朦朧としてきた。

 しかしそのうち体が急に楽になり、目の奥で赤い輪っかが大きくなったり小さくなったりしている。私はこれで死ぬんだなと意識の奥で悟ったが、体は楽だった。そんな状態が続いたがまた呼吸が苦しくなった。

 目を覚ますともう結婚していた妻が医者を呼んできたのが分かった。医者は私の病状に怖がりつつもネオフィリンの静脈注射をしていて、呼吸が少し楽になっていた。だから私は臨死体験をしたのだが、死ぬときは楽だなと思った。

 そんなことが33歳まで続き、私は独立して会社の経営を始めた。やはり発作の原因は神経的なことが多いのか、いい意味の緊張をしていた私は重篤な発作に見舞われなくなった。しかし発作にはしょっちゅう見舞われた。

 そのうち英国のグラクソ・スミソクライン社が発売を始めたセレベントとフルタイドという吸入薬を予防的に使用すると発作が全く出なくなった。その薬は私に新な人生をもたらした。それで今の体重は72kg、でっぷりと太っている。もう誰も「ヒアフラ」と呼ばなくなったが、猫背は健在だ。子供3人、孫が5人もいる。誰よりも健康だ。人の一生は分からないものだ。

酒巻 修平

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