浮浪者に7000円
私は公園などでぼけっとして無為に時間を過ごすことがある。その日もそうだった。公園のベンチに座った色々考えていた。
私はたまたま商売をできるくらいの体力と能力を持って生まれたが、そうでない人もいるだろう。どこへ就職しても能力が足りず、すぐに体よく馘首される。
現実に私の知人の息子がそうだった。本人は自分から辞めたと言っているのだが、自分をよく見せるためにそう言っているだけで、実は就職する先々で能力の低さが疎まれて辞めざるを得ない状態に追い込まれる。
勿論居座ればいいのかも知れないが、そんな人はそれほどの根性も持っていない。もっと程度が低い作業員にでもなればいいのだが、それもできない。
その人は性格がとてもいい訳でもないので安定した収入がないし、周りが全てその人を疎む。結婚なんて夢のまた夢だ。
そんな彼を非難するのは簡単だが、彼もそんな能力に生まれたかったのではない。一流大学に行っていい会社に就職できるくらいの能力があれば彼の人生はもっと幸せな筈だ。
彼が前世でどんな罪を犯したというのだ。それもない。神の配材でただそのような能力に生まれたし、生まれた家庭も良くなかった。
今彼は76歳のお父さんの年金で暮らしている。時々は就職しているので、そのときはお父さんの世話にはならないが、就職していないときの方が長いので、どうしてもお父さんに頼らざるを得ない。
お父さんも最近背が曲がり、体力が前ほどではない。余命も10年はないようにも思える。お父さんは昔奥さんに逃げられた。そのとき元奥さんは女の子だけを連れて逃げて、幼かった彼を見捨てた。
イスラム教の教えの一つに「富める者は貧しきものに施しをせよ」というのがある。一部の心ない人がそれを逆手に取って「私は貧乏だ。だから富める人から施しを受ける権利がある」と考えるが、それはさておきこの彼のことを考えるとどうしてもこのイスラム教の教えを思い出すのだ。
人は平等に生まれてきている訳がない。キリスト教では「平等」という教義があり、とても結構なことだが、彼には「平等」な権利を享受する能力がない。仏教はこんな彼をどのように救うのか私は知らない。
こんなことをときどき考えるのだが、あるとき公園のベンチに座っていると隣に身なりが優れない人が座った。その人は憂鬱そうに何かを考えている。
ふとこの人と目が合うと何だか話が始まった。彼曰く「高所での作業中落下してそれ以来手と両足が自由に使えないのでもう働けない。今は会社の宿泊所で食事だけはできてありがたいが、事故自己以来10年間酒も飲んだことがないし、一円の小遣いもない」
ベンチの周りには自転車を乗った子供がいて、近くにはお母さんが見守っている。そんな幸せな雰囲気の中、彼だけは沈んでいて不幸を一心に背負っているようだ。
怪我をする前は一杯飲み屋にも行き、映画も見たと彼は嘆く。そんな昔の幸せだったころを懐かしむように途切れ途切れに話す哀れな彼はもう50歳くらいに見えた。
この先彼にはどんな生活が待っているのか。会社は一生死ぬまで彼の面倒を見てくれるのか、他人事ながら、私は気の毒に思えた。
私は毎月自分用に使える小遣いがあり、本を買ったり、酒を飲んだりできる。なんという不平等だと自分と彼を比べた。
その日私の財布には7000円しか入っていなかった。それでその7000円を彼にやったが、もっと持っていないのを悔やんだ。私はそれでも彼に取っては10年に一度の小遣いが入ったことを喜んだ。
会社に帰ってそのことを経理の女性に話すとその女性(非常に有能)は一言「ばーか」と言って私の顔をつくづく見た。
私は正しいことをしたのか、馬鹿だったのか、いまだに結論が出ていない。
酒巻 修平