蕎麦アレルギー

父はストックブローカーをしていた。株で儲かったときは我が家は裕福で反対に損をしたときは貧乏だった。ある年の暮、結構な利益を得た父は母や子供に洋服を買ってくれた。ところがそれから全ての利益と元手を合わせた資金を投資に回し損をしてしまった。

 気が付いた時は買ってもらった服がなくなり、全て質屋に持って行かれていた。家はほとんど金がない状態だった。だから正月資金もない。お年玉など想像の付かない状態になってしまった。

 しかしどういう訳が縁起を担ぐ父は晦日蕎麦を注文した。これにお金を払ったかどうかは子供には分からない。あるいは付けで支払いは年が明けて株式相場が開いた後にするなどの約束を蕎麦屋にしたのかも知れなかった。

  私は小学生だった。何年生か忘れたが、一家8人小さな卓袱台を囲んで蕎麦を食べた。父はあっという間に食べてしまったが、初めて食べる蕎麦に私は戸惑った。あまり好きな味ではなかった。

 しかし促されて汁も全部平らげた。何しろ家にはお金がないので、ほかに食料品はなかったので、これが唯一の食べ物だった。最初は美味しくないと思っていたが、食べ進むうちに蕎麦の風味や味に馴染み、美味しかったのは覚えている。

 それから少したって私は寝た。暫く寝ると吐き気がしてきた。胃がむかつき、呼吸も苦しくなっているように思えた。でも我慢をしていた。折角子供たちにも食べさせてくれた蕎麦だから、吐いたりしたら勿体ないと思った。

 しかしそんな努力も水の泡で吐き気はだんだん酷くなってくる。もう駄目だった。布団の上に思わず吐くと伯母が吃驚して介抱してくれたが、目も霞むようだった。

 今度気が付くと病院のベッドの上だった。医者が私の胃を洗浄したのだそうだ。医者は早く連れてきて命が助かりましたと言っている。このときは伯母のお陰で命が助かったと思った。

 医者は更に今度こんなに沢山の蕎麦を食べると命が危ないので気を付けるように親たちに話している。私はぼんやりと大人たちの話を聞いていた。結局一週間も入院していたのだろうか、かなり痩せて退院した。それから晦日蕎麦は家では食べることがなくなった。

 確かあれば6年生の時だったと思うのだが、学校の給食で蕎麦が出た。私は分からなくて少し口に入たのだが、蕎麦で苦しんだ記憶が鮮明に蘇り、すぐに口から吐き出した。

 それを見ていた先生が私に近づき、「酒巻何しているのだ。給食は全部食べなければならないじゃないか。それなのに嫌いだからと言って吐き出したりしたらばちが当たるぞ」と蕎麦を食べさせようとする。

 確かに当時は食糧も豊富になく、給食は得難い食料だった。先生は当たり前のことを言っているのだが、私には蕎麦は恐怖以外の何物でもなかった。家は貧乏なときが多く子供ながらに苦労をしているものだから、私はひねくれて嫌な子供だったと思うが、先生に反抗した。

 「先生、私が死んだらどのように弁償できるのですか。お医者さんは蕎麦を今度食べたら死ぬと言っています」「こいつ嫌いなものだからそんな嘘を付いて、食べろ」とやり取りがあったが、私は頑として先生の言葉を受け入れなかった。気の弱い子ならここで仕方なく先生に従って死んでいただろうと後で思った。

 それからしばらくして蕎麦のアレルギーで死んだ人のことが報道されたので、蕎麦は怖い食べ物だとの認識がやっと広まった。

 40歳になったころ、もう一度危ない目に会ったことがある。私は誰かとフランス料理を食べに行った(フランス料理だぞ。すごいな)。勿論蕎麦は食べないようにしていたので、旅館に泊まったときなどは必ず蕎麦が料理に使用されていないか聞いてから食べるようにしていた。

 しかしフランス料理だ。まさか蕎麦が使われているとは思えない。食事を始めて少し経つと胃がむかついてきた。以前の経験から考えてこれはどこかに蕎麦が使われていると思って聞くと、パンに蕎麦を使っているとのこと。私は店を相当叱った。

 そのときはほんの少ししか蕎麦は食べなかったので、頭が痒くなった程度で済んだが危ないところだった。今文章を書いていても考えると指が痒くなってくる気がする。

酒巻 修平

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