モンシロチョウが消えた
家の裏には林があり、珍しい蜻蛉や種々の蝶が生息している。この間も近所の中学生がジャコウアゲハやアゲハチョウ、何種類かの蜻蛉を取って籠に入れていた。
我が家にも小さいながら庭があり、春になるとキチョウが姿を見せるし、続いてコミスジがひらひらと飛ぶ。それが5月ころになるとアゲハチョウ、クロアゲハ、ジャコウアゲハが悠然と飛ぶのが見える。
たまに来るのがアサギマダラで優雅な姿の割りには飛ぶのが素早い。そのころにはクロタイマイもやってくる。夏も盛りを過ぎるとルリシジミ、ヤマトシジミ、それにベニシジミが可憐な姿で舞うようになる。
ところがモンシロチョウを最近は見かけない。こんな普通種の蝶がいないのが不思議だが、何故か姿を見ない。そう思っていると隣の家の花壇辺りで久しぶりに見かけた。
そっと近づいてみると少しサイズが小さい。色も白色が少ないようで、変だなと思って良く観察するとそれはツマキチョウであった。
今の家に移って来てから約10年が経とうとしている。その間一度もモンシロチョウを見ていない。子供のころから慣れ親しんだこの蝶がいなくなった。何だか寂しい。
昔は一番多く見られた蝶で、見るのも飽きたくらいだったが、このように姿を見なくなると飽きた蝶も懐かしい。時代の変遷なのか、自然も人の生活状態と並行して変わってきているのかも知れない。
キチョウは前より多く見られるようになったのは家の近くに林があるからだと思う。それならどうしてモンシロチョウがいないのか。
考えてみるとモンシロチョウは多分最近(と言っても2,3千年以上も前だろうが)進化した蝶に思える。元いた蝶をある程度駆逐して、大きな勢力を保っていた。
それがどうしていなくなったのかとよくよく考えるとふとその理由が分かった。多分畑がなくなったからだ。畑があっても野菜に防虫剤を撒くからモンシロチョウはそれが原因で数を減じたのだろう。
そう言えば20年ほど前千葉の知り合いの家に行ったとき、モンシロチョウ蝶が白菜かキャベツに群がっていたのを見たのを思い出した。
その家では人の体のことを考えて防虫剤を撒かず青虫(モンシロチョウの幼虫)を見つけては手で取っていた。食事に出された野菜には穴がところどころ空いていた。
モンシロチョウは人が農業を始めて、それが自然環境を変え、進化したと思える。農業はその後盛んになり、モンシロチョウも数を増やしたのだろう。
だとすればモンシロチョウやその亜種は日本だけではなく、外国にも多く生息していたに違いない。
モンシロチョウを見たければ防虫剤を使用しない未開国に行かなければならないのか、それともまだ日本でも見られるのか。
そう言えば童謡にこんなのがあった。「ちょうちょ、ちょうちょ、菜の葉に止まれ。菜の葉が飽いたら桜に止まれ」。それに対して友人の大阪博物館の館長がクレームを付けた。
モンシロチョウは桜に止まらないとか科学的見地から事実を述べたのだが、それは的外れの意見だった。詩は心象を言葉にしたもので、モンシロチョウが桜に止まるのを夢想することだってできる。
防虫剤がモンシロチョウを駆逐したとすると同じ動物である人にも害があるではないか。モンシロチョウは小さく影響が大きいのだろうが、人も長年防虫剤を被った野菜を食べると体のどこかに異変が起きないか。
人は自然を随分破壊してきた。武蔵野は姿を消しつつあるし、野生の山吹はもう絶滅した可能性もある。
モンシロチョウは人が作り、人が絶滅に追い込むのか。自然の景色は国木田独歩の「武蔵野」や大岡昇平の「武蔵野夫人」を読んで忍ぶほかないのか。人は気が付いて今では自然保護に力を知れているが、絶滅した動植物は帰ってこない。
酒巻 修平