秘すれば花

 生物とは自己複製をする系である。細胞も自己複製をしなければ生を保つことができない。生物が生物であるためには新陳代謝が欠かせない。従って死とは新陳代謝の終了を以て定義することができる。

 現在医学は心臓や肺の停止を死としているようだが、それは便宜的な扱いで、心臓や肺が停止して埋葬された人が生き返った人が大勢いる。

 だが新陳代謝が終了しても体が腐敗しない限り再開される可能性があるので、この死の定義も怪しい。そうすると死とは腐敗の開始としても良いのではないか。だがそれは外的な影響があり、その生物の個体としての死とは定義できないように思える。

 このように人を含む生物の生存過程の解明は極めて困難で、いまだ解明の端緒にも付いていない。細胞レベルでは難しくないが事が体全体に及ぶと神の手が入っているのではないかと思われるほど複雑かつ深淵で人の頭脳が達する域にはない。

 自己複製の主たる目的は自己全体を複製することである。男女が共同して子孫を設けることこそ生物の生物たる所以で、新陳代謝はこの自己複製をするために体を生存させておく副次的な自己複製と言える。

 その大切は行為を人はどうして秘匿したいのか。猫や犬は秘匿する意思などないのに人間だけは別だ。それは頭脳が極端に発達して所為だろう。だが職業によってはそんな行為も人に却って公開することもあるので、それは一重に慣れの問題かも知れない。

 西欧人はその点アジア人よりオープンで、生殖行為やそれに繋がる男女の体の触れ合いを人に見せることを比較的厭わないように思える。

 だが秘め事とはそういうことだろうか。万葉集を紐解くと第一巻の第一番目に雄略天皇が読んだ歌の中には次のようなくだりがある。

 「・・・このお岡に菜摘ます子、家聞かな。名乗らさね・・・」。意味は「家はどこか。名前を聞きたい」ということで当時女性に取って名前を教えること同衾をして良いということを表していた。

 従って名前そのものが秘め事である。家もそうだ。家の在り処を教え、名前を教えるということは男女の仲になって良い。あるいはそうしたいということのようだ。

 すなわち自分に関する情報は全て秘め事だったのだ。この考えは今でも存在する。お互いが名前や電話番号を交換するのはその後の交際から男女の仲になることも想定される行為である。

 万葉集の時代女性は顔を見せていたのだろうか。私は調べたことはないが、確か室町時代に女性はベールのようなものを眼前に垂らしていたのを絵で見たことがある。

 これは日本だけではなく、イスラム教国でも同様で、それらの地域では今も風習として残っているようだ。

 何故女性は自分の情報や体を秘匿するのだろうか。衣服を纏うのは防寒的な目的だけではなく、体を秘匿しておきたいとの理念も含まれるだろう。考えてみれば分る。女性は裸を見せるのは限られた人に対してだけだ。

 生物が生物として存在するには子孫を残す、すなわちDNAの保存を本能としている筈なのに、どうしてその行為を秘め事として二人の間だけに存在するのか。

 このことだけを考えても人は他の動物とは一線を画す高貴な生物だと言える。隠しておくという行為は人だけに存在するのだ。死ぬまである事実を秘匿しておくというのはよくあることだ。

 秘匿することによって他者は知り得ないが、創造や推測することができる。夫婦関係にある男女はそんな行為を他人に見せないが、他人は二人の間にそんな行為があるのを知っている。想像や推察できるのだ。

 化粧も女性の秘め事だろう。それは自分の顔を飾る行為だが、顔に関する行為も秘め事に違いない。

 だが現在、電車の中で他人周知のところで化粧をする女性がいる。これはもう秘め事を秘め事として扱わないということだろう。

 世阿弥は風姿花伝の中で秘めることは美しいことであると述べている。世阿弥に言われなくても人は秘め事によって美しさを保つことを知っている。美とは秘匿することに違いない。

 日本人は言いたいことも言わないことがある。すなわち秘匿するのだ。そうすることにより他者はその人の考えや意思を推し量るようになる。それはその他者の精神の在り方によって良いようにも悪いようにもなる。 人の美がここにも存在するではないか。日本人は高貴なのである。 

酒巻 修平

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