宗教を考える

人は動物と違い、頭脳が極端に発達した。宇宙の成り立ちを考察し、病気を治癒する方法を編み出した。動物の中では最も高度に進化し、偉大な存在であると言うことができる。

 ただ脳が発達した所為でその脳を絶えず使うことを余儀なくされて、それがために種々の悩みやトラブルも抱えるようになった。人以外の動物は自己複製する、即ち、子孫あるいは遺伝子を残すためだけに生を全うしているとも言えるのに、人はそれ以外に脳を使うことが生の一部になっているのだ。

 そしてその傾向は歴史時代が始まってから顕著になり、生を全うするより脳を使うことが生きている大きな目的になった。文明国ではその傾向が顕著で、衣食住の確保に脳を使うことが少なくなってからは、毎日脳を如何に使うかが生きる大きな課題になった。

 大きな家を持つ、金をできるだけ稼いでリッチな食事をしたい。美しい異性と交わりたい。それらは全て脳の満足のために行っている行為である。人が生きるには美しい衣服も、大きな家も要らない。充分に防寒できる素材には事欠かないし、大きな家があっても殆どが使わない部屋がある。そんなことをする意味は脳の満足以外にはない。

 動物には体の大小からなる体力差があり、体力の大きいものが群れのリーダーになる。リーダーは大体雄だが、その雄は雌を独占し、食べ物を独り占めにすることができる。

 動物の世界では体力が欲望の満足を得る手段であるが、人に置いては脳の優秀さであると言える。そうすると脳の優秀さに劣る人は持っている欲望を満足させることができない。

 動物ではそれで終わりだが、人には脳があるから厄介だ。家族が住むには足りないスペースしかない住居に住み、飢えに苦しみながら毎日を暮らす。脳はそれを苦痛と感じ、自己を消し去ろうとする者さえ現れる。

 その心を癒し、生きる望みを繋ぐ、あるいは精神上の悩みを取り去り、自己を昇華するために、古来偉人が考えたのが宗教である。宗教は人い脳の力に差があっても基本的には平等であるとした。

 そして宗教を信じることの自由さを訴え、それを獲得した。江戸時代やローマ帝国の初期のように自身の宗教を持つことを禁止することはもうない。誰もが信じる宗教を持ち、それがないのを却って奇異とする風潮さえある。

 自己の宗教を持つ自由は、どんな宗教を選んでも良いということと同義である。釈迦、キリスト、マホメッドはそれを標榜し、人はそれに従った。そして彼らは自分の悟りを教えとして、書き物に残し、後世の人はそれに殉じた。

 しかるに偉大な創始者が世を去って幾何も時を経ないのに、それぞれの宗教の継承者や伝道者は初期の教えを歪ませ、独自の考え方を作り上げた。それは人の心を救うと考えたか称したかは別として、創始者の路線を離れた考え方の立案者やその後継者は完全な無私ではなかった。

 やがて自己が創始者の系列という理由で、権力を持ち、他の考え方を排斥する行動に出るようになった。それが日本の仏教では真言宗、曹洞宗、浄土宗、日蓮宗で、キリスト教ではカソリック、プロテスタント、イスラム教ではスンニ派、シーアなどになった。

 それらが互いを認め合い、合い携えて人の心の救済をすれば釈迦、キリスト、マホメッドは天国からうれし涙を流したであろう。しかしそうではない、カソリックとプロテスタント、スンニ派とシーア派は互いに敵対し、排斥する運動に終始している。

 宗教は元々それを信じる自由を獲得するために時の政府と闘い、勝利を収めた。それは武器に依らない聖戦であり、尊いものだった。それなのに、各宗派が他宗派を認めず、宗教心が強ければ強いほど相手を滅ぼすための武器を持った戦いも厭わない。

 事実だけを言おう。現在の社会において自己の宗派に名を借りて、他宗派を滅ぼすという目的のために一般の人を無差別に殺害するのはほとんどがイスラム教徒である。私は熱心な宗教の信奉者ではないので、その詳細な理由は承知しないが、この事実は重大である。マホメッドはそんなことを教えはしなかったと信じている。

酒巻 修平

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