白鷺
家の前の坂を下ったところに小川というか、疎水が流れている。川幅は2,3メートルで水深も30cmほど、真に細くて貧弱な流れである。
しかしそこには色々な動物の姿がある。春になるとあめんぼが無数に泳いでいるのを見かけるし、誰かが放したのか、本流から流されて住み着いたのか、大きい鯉も浅い水の中でときどき腹を見せる。
この辺りにはまだ自然が残っていて、土筆も芽を出すし、狸も多い。少し離れると車が通る大通りがあるのに、ここは至って閑静というか音が少ない。
散歩はその疎水を京都の高瀬川と見立てて、15分ほど行って対岸を戻る。全部で半時間ほどの行程。ただ高瀬川の風情は望むべくもない。
両岸に建つ家は古く、だから大きく太い木が枝を道路に伸ばし、それぞれ季節の花を付ける。それを見ながら歩いていると少しの間、憂さを忘れる。
右に曲がると上り坂になるので、あまり行かないが、気分のいい時や時間が余った日曜日などはちょっと冒険してみることもある。
どこの家の庭の木も同じようで、最近は「シマトネリコ」が人気集めて、洋風の建物に良く似合う。
少し行くと公園があって、秋には大きな柿の木が沢山の実を成らせる。一度取って食べたが、味は野生に近く大して美味しくはなかった。
毎日同じところを歩くので、大体どの辺りにどんな花がいつ咲くかは覚えてしまった。たまに庭師が入っている家があって、道路に梯子を掛けているので、それを避けて通る。
天気の良い日は散歩をするが、雨が降っていれば止めるのは誰も一緒だろうと、家の階段13段を10回上り下りすることで運動の代わりをすることも多い。
寺には銀杏が大木をなしていて、今ごろは銀杏が落ちている。強い風が吹くと沢山の銀杏が落ちていて、前にはよく拾ったが、最近は剥くのが面倒で、拾って帰らない。近所の人も同じことを考えているようで、銀杏は落ち残ったまま、強烈な臭いを周囲にまき散らす。
そうして歩いていると顔見知りもできる。寺の奥さんやその隣の加藤さんとは顔なじみで立ち止まって話をすることがある。
ある日その疎水を歩いていると白鷺に出会った。向こうはこちらを警戒して、歩いていて近寄ってしまうと逃げてしまう。もう少し近くで見たいものだが、白鷺は意地悪だ。
昔は田んぼにはいくつでも白鷺が立っていた。農家の人は珍しくもないので、関心を払わない。白鷺側もそれに慣れるらしく、一切逃げようともしないし、人間のほうを見もしない。
ここの白鷺はそんな風習を習ったことはないようで、私の顔を見ると少し飛んで、疎水の遠くへ移動する。あまり可愛くない。
非常にたまにだが、アオサギが来ることもある。白鷺より二回りも大きいので、貫禄充分で見ごたえがある。
白鷺の足は折れるほど細く、アオサギのは太い。だからアオサギは優美ではない。烏でない鳥でこんなに大きいのは見かけないので、尊重されるが、私はたいしたことがないと思っている。
65歳で亡くなった兄がくれた杯が食器棚に入れてある。小さな杯だが、有田の「臥牛」の物だと聞いていた。
そこには白鷺が書いてあって誰も真似できない。片足を上げて立っている白鷺の足は細く、実物と似ているが、他の人が真似て描いた白鷺の足は、あれはアオサギの足だと思っている。太くて優美ではない。
酒の季節になると、その臥牛の杯で酒を飲む。兄は小さいころ健康優良児であったが、早死にしてしまった。私は体が弱かったが、まだ元気で生きている。一病息災と考えて体を労わった。まだ何年かあの白鷺を見ることができる。
酒巻 修平