箱根駅伝 & 予選会
私はマラソン、駅伝の大ファンである。だからこの時期から正月に掛けては、土、日、新聞のテレビ欄は目を皿のようにして、見逃さないようにしている
昨日予選会があって、本選に出場できる10校が決定した。走っているときもそうだが、出場校が発表されるときの選手たちの悲喜こもごもの人間ドラマは現実であるために、生々しい。
シード校と予選会で選ばれたチームを分析すると、ケニア人留学生がいる大学はどうも良い成績を残せない。日本大学は落選したし、山梨学院大学も本選では良い成績を残せていない。
駅伝はチームプレーだと言われる。私はへそ曲がりだからそうではないと思うのだ。10人の選手が本選では走るのだが、結局は各人の成績の合計。それが全てを決める。
誰かが良い走りをして、それに刺激された選手が常より良い走りをすることもあるだろうが、実力以上の走りができるわけがない。自己記録を塗り替えてもそれは実力があってのこと。
但し実力を付けるにはやる気が大切。留学生に頼る精神が少しでもあると、実力が養われない。どこかに人に頼る精神が生まれる。だから私はチームプレーという言葉が嫌いだ。
私は亡くなった「オツオリ」が在学中より山梨学院のファンである。しかしそのときは「オツオリ」以外の選手にも実力があって、優勝したと思っている。
来年の本選では山梨学院は駄目だろう。留学生に頼る精神が監督の言葉の端々に伺える。この監督では優勝は難しいと読んだ。
全出場校が精一杯の努力をしているので、優勝するにはそれなりの実力が必要だ。留学生に頼って優勝なんかできない。
私は読売新聞を購読している。ここも同じで、自分たちの会社が大会社で、社員は会社の総合力を頼りにしている。予選会を担当したアナウンサーの下手さ加減。選手の名前は間違えるは、言葉は下手。聞いていていらいらする。
そう言えば相撲の実況中継を担当するアナウンサーも酷い。中にはまともな人もいるが、力士名は間違えるし、文章構成がなっていない。この人たちは本当にプロなのか。ここにも自分たちが世論をリードしている。大会社であるという意識がアナウンス技術の向上を妨げているように思えてならない。
読売新聞を取っているのは、朝日新聞のレベル低くさに辟易したからである。何しろ文章が下手だ。3回読み直しても意味を取れない文章が多いし、二通りに読めるものもある。
それは形容詞と副詞を置く位置が不適正だからだ。例えば「美しい日本の親切心」という言葉があるとする。それでは「美しい日本」なのか「美しい親切心」なのか分からない。
それにこの新聞はメディアの意義をはき違えている。メディアには事実を報道する自由があるが、故意に事実を曲げ、曲解し、小説仕立てにする意図が見える。そんなことには表現の自由はない。誹謗された人は訴訟して争うべきだ。
言った通り私は箱根駅伝を楽しみにしている。読売新聞が主催なのか、スポンサーなのか、新聞にもこの駅伝のことがしばしば書かれる。
これが問題なのだ。あるときは4ページを割き、連日大きく紙面を割く。今日も昨日の予選会の記事があった。これはどういうものだろうか。ファンであっても行き過ぎではないかと思うのは私一人であろうか。
今の人は何のために働くのだろうか。多分お金のためだろうが、それはそれで合理的であり、正しい。しかし自分の尊厳や存在感も仕事に求めても良いのではないだろうか。
NHKには宮田輝とか高橋圭三など極めて優秀なアナウンサーがいたし、朝日新聞は日本の文化の象徴だった。そんなことはもうない。寂しいではないか。
駅伝シーズンが始まった。楽しみな週末が待たれる。
酒巻 修平