日本3度の敗戦

 日本は第二次世界大戦で敗北してが、実はもう2回敗戦を経験しているのだ。一番古い敗戦は白村江の戦いである。

今の韓国にあった百済は日本と友好関係にあったが、新羅と高句麗の連合軍に滅されて、王族が捕虜になってしまった。しかし軍は踏み止まり、日本に救援を要請。それに応えて日本は663年2月、百済へ3万人弱の兵を派遣した。

このときの日本軍の大将は中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)は副将だった。しかし派遣された軍が乗った船は小型船ばかりで、戦いの仕方も稚拙。

最初、戦いは優勢に進められたが、相手に唐が援軍を派遣して、白村江で戦う。唐の軍艦は大きく、日本軍を木っ端微塵にやっつける。この海戦が白村江で行われたから、この戦いは白村江の戦いと呼ばれているが、目も当てられない敗戦だった。

第二次世界大戦は70年経過した現在も詳細な報告があり、語り継がれているので誰もが知っているので省く。

後一度の敗戦は案外見過ごされている。それは明治維新の前に行われた、イギリスとの戦いである。

最初の戦いは薩摩が起こした。ところが全く歯が立たない。その次は長州。これも薩摩と同じでただ児戯。

徳川はこのとき外国勢と戦いをしていないが、外国から日本の主権者と目されていた朝廷は攘夷と名を打って外国人を排斥していた。ところが薩摩、長州の敗戦を知り、勧めもあって和睦。でも結局は敗戦と同じ境遇になり、不平等な条約を交わした。

この三回の敗戦には共通する幾つかの点が見られる。それは日本人の精神のありかたを良く物語っているように思える

第一は無謀ということである。白村江の戦いでは当時強大な中国と争い、明治維新前の戦いでもそう。第二次世界大戦のことは誰もが知っている通りである。

戦争当時日本は慢心していた。白村江の戦いのころは朝鮮の任那を占領していたし、明治維新では薩摩、長州は徳川に対して、隷属していた境遇から徳川を倒す自信が漲っていた。

第二次大戦のころは中国の一部を占領して、列国と肩を並べあるいは自分の方が上だくらいに思っていた。

即ち、孫子の教え「相手を知り、己を知らば百戦戦うとも危うからず」を勉強していた筈なのに生かしていない。いずれの敗戦のときも相手の強大さにくらべ自分の方が弱小であるのを顧みなかった。

大二は慢心である。自己を過信して、相手の戦力、戦術、諜報能力を研究していなかった。

その遠因はそれぞれの敗戦の前の小さな勝利である。その勝利に浮かれた日本は慢心して無謀な戦いを強大な相手に仕掛けた。

白村江の戦い前、日本は百済の王を人質として日本に拘束していたし、明治の前は密輸などで戦費があった薩摩が徳川に対して心理的にも有利であった。今大戦では中国を割譲し、自信満々な状態であった。そしてインドからイギリスを、インドネシアからオランダを簡単に追い払ったこともアメリカなにするものぞという気概があった。

 敗戦は後の交渉事に全て悪影響を及ぼす。天智天皇は九州に土塁を築き中国を怖れた政策を取らざるを得なかったし、明治維新の不平等条約は解消するのに、長い年月が掛かった。

 今回の敗戦からはもう70年以上経過しているというのに、今だに東京付近の空域はアメリカに支配され、戦争をしていない中国、韓国にも屈辱的な処理をされている。

 日本は戦後処理が下手である。どの国も敗戦する。原因がどうであれ、戦後の屈辱的な処理を政治家どもは研究せよと言いたい。

酒巻 修平

二次世界大戦で敗北してが、実はもう2回敗戦を経験しているのだ。一番古い敗戦は白村江の戦いである。

今の韓国にあった百済は日本と友好関係にあったが、新羅と高句麗の連合軍に滅されて、王族が捕虜になってしまった。しかし軍は踏み止まり、日本に救援を要請。それに応えて日本は663年2月、百済へ3万人弱の兵を派遣した。

このときの日本軍の大将は中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)は副将だった。しかし派遣された軍が乗った船は小型船ばかりで、戦いの仕方も稚拙。

最初、戦いは優勢に進められたが、相手に唐が援軍を派遣して、白村江で戦う。唐の軍艦は大きく、日本軍を木っ端微塵にやっつける。この海戦が白村江で行われたから、この戦いは白村江の戦いと呼ばれているが、目も当てられない敗戦だった。

第二次世界大戦は70年経過した現在も詳細な報告があり、語り継がれているので誰もが知っているので省く。

後一度の敗戦は案外見過ごされている。それは明治維新の前に行われた、イギリスとの戦いである。

最初の戦いは薩摩が起こした。ところが全く歯が立たない。その次は長州。これも薩摩と同じでただ児戯。

徳川はこのとき外国勢と戦いをしていないが、外国から日本の主権者と目されていた朝廷は攘夷と名を打って外国人を排斥していた。ところが薩摩、長州の敗戦を知り、勧めもあって和睦。でも結局は敗戦と同じ境遇になり、不平等な条約を交わした。

この三回の敗戦には共通する幾つかの点が見られる。それは日本人の精神のありかたを良く物語っているように思える

第一は無謀ということである。白村江の戦いでは当時強大な中国と争い、明治維新前の戦いでもそう。第二次世界大戦のことは誰もが知っている通りである。

戦争当時日本は慢心していた。白村江の戦いのころは朝鮮の任那を占領していたし、明治維新では薩摩、長州は徳川に対して、隷属していた境遇から徳川を倒す自信が漲っていた。

第二次大戦のころは中国の一部を占領して、列国と肩を並べあるいは自分の方が上だくらいに思っていた。

即ち、孫子の教え「相手を知り、己を知らば百戦戦うとも危うからず」を勉強していた筈なのに生かしていない。いずれの敗戦のときも相手の強大さにくらべ自分の方が弱小であるのを顧みなかった。

大二は慢心である。自己を過信して、相手の戦力、戦術、諜報能力を研究していなかった。

その遠因はそれぞれの敗戦の前の小さな勝利である。その勝利に浮かれた日本は慢心して無謀な戦いを強大な相手に仕掛けた。

白村江の戦い前、日本は百済の王を人質として日本に拘束していたし、明治の前は密輸などで戦費があった薩摩が徳川に対して心理的にも有利であった。今大戦では中国を割譲し、自信満々な状態であった。そしてインドからイギリスを、インドネシアからオランダを簡単に追い払ったこともアメリカなにするものぞという気概があった。

 敗戦は後の交渉事に全て悪影響を及ぼす。天智天皇は九州に土塁を築き中国を怖れた政策を取らざるを得なかったし、明治維新の不平等条約は解消するのに、長い年月が掛かった。

 今回の敗戦からはもう70年以上経過しているというのに、今だに東京付近の空域はアメリカに支配され、戦争をしていない中国、韓国にも屈辱的な処理をされている。

 日本は戦後処理が下手である。どの国も敗戦する。原因がどうであれ、戦後の屈辱的な状態を如何に回避するかを政治家は研究しなければならない。

酒巻 修平

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