行き過ぎた男女同権
女性は子供を産むように作られている。人より下等な動物、植物も同様である。子供を産むには定まった過程があり、健全な子供を授かるにはそれ相応の生活、行動規範が求められる。
アルコールを飲んだり、夜更かし、過度な運動などは禁じられるだろう。そんなある範囲の定まった規範を求められることに女性は苦痛を感じない。それが基本的な女性の能力である。
女性は従って保守的であるとも言える。戦争を起こすのは男性であるが故に社会は戦争の歴史を数限りなく経験している。女性が政府を動かす社会では戦争はまず起こらないだろう。
犬と猫は違う。同様に最高等な人に置いて、男性と女性は違う動物ほどの差があり、社会もそれを容認してきた。ところがそんな動物学的、社会学的な差をほぼ無視しようとするのが最近の男女同権ではなかろうか。
仕事において男女が同権なのは論を待たない。有能な女性にそれ相応の権利を与えないと女性はその団体を去っていくだろう。これはその団体の損失である。ある範囲の仕事において男性より女性の方が有能である例は日常茶飯事的に見受けられる。
ただ権利の代償として義務がある。最近の風潮ではこの権利の裏の義務を忘れただ権利を主張する社会現象が見られるが、これでは不公平だ。権利を声高に主張する風潮はアメリカから来たようであるが、これは勘違いである。
アメリカでは権利を主張するのは許されるが権利を獲得すると義務を同等に課せられる。勿論課せられた仕事をこなさなければならない。女性であっても仕事を家に持ち帰ってやることも要求されるだろう。
男女同権がかまびすしく叫ばれるようになって、呼び名も男女差がなくなった。看護婦という名がなくなり、スチュワーデスという魅力的な職業名は廃止された。
そこまでする必要があるのだろうか。何人かの女性看護師に意見を聞くと看護婦という名前には全く抵抗がないと言う。キャビンアテンダントよりスチュワーデスと呼ばれたい客室乗務員は多いだろう。
こんなことを推し進めるなら、男性と女性という呼び名も止めて等しく、「人」と呼ぶようにすれは良いだろう。誰がこんな名前を普及させたのか。あるいは何処から始まったのか。一つには有権者の半分が女性であることを考え、政治家たちが政争の手段にしたのではないだろうか。
戦争を好まない女性が防衛大臣にされたのもおかしい。自衛隊は戦争をしないという建前になっているが、軍隊である自衛隊は当然いつの日か闘争に携わるときが来るだろう。その戦争の責任者である防衛大臣が女性であるのはどんな理由によるものかは想像に難くない。
若い女性と話す機会があると今の男女同権はどのように受け止めているか質問することにしている。答えは一様に反対だ。男女同権論が煩くなってから男性が頼りなくなったと見えるらしい。
デートをすると割り勘。暴漢に襲われても男性は昔ほど女性を守る努力をしない。相当年配の女性に尋ねると今の男性は気の毒だと話す。妻にがんじがらめに縛られ、勉強する時間や友人と外で食事をすることに後ろめたさを感じる。
それでは妻が求める高い収入を得られない。収入を得るには元から自分が持つ能力に加え、勉強や交際をしなければならないのだが、それがままならない時代になった。
強制的に男女同権を推進しなくても自然にそうなるような気がする。そうなることで快適な男女同権社会が出現するのではないだろうか。今の社会はいびつだ。ペーパテストを受かっただけの高級官僚が主導する社会を作ってはならない。
彼らが有能でないのは知っている。ただただ記憶に頼りながら、新しく「美しい日本」を作る能力など全くない。彼らが考えているのは退職後の天下りのことだけだ。
男性が女性を守り女性は子供を産んで辛抱強く良い子に育ててくれる。そうすれば今のような訳の分からない犯罪は激減するだろう。
酒巻 修平