忘れ得ぬ食べ物

  何と言っても私の記憶に残っている食べ物は干し芋である。おじいちゃんの実家の四国の安房郡というところから時々送ってくれたのだが、普通の干し芋と違ってかちかちに干してあるものだ。だからそのまま食べないで鍋の中に入れて少し柔らかくなったのを食べる。

 家は貧乏だったので、それはご馳走だった。その干し芋が贈られてくるのを楽しみに待ったものだ。おじいちゃんはおばあちゃんの再婚の相手で私とは血のつながりがなかったが、可愛がってくれた。目白(小鳥の)を一杯飼っていて、品評会にだしては売っていた。職業に付いたことはなかったように記憶する。

 小学校のころバナナなど食べることができる家は近所では弁護士さんの家だけで、時々そこの女の子が食べているのを見た。別に羨ましくもなかったのは別世界のことだったからだ。

 中学のころになると繁華街ではバナナの叩き売りなどがあってアルバイトをしたお金で思い切って買った。家に持って帰っておばあちゃん、兄弟、伯母さんなどと一緒に食べた。

 世の中にこんな美味しいものがあるのかと思えるほど、りんごなどとは違う触感で、噛むごとに口の中で蕩けた。しかし日本の外貨事情が好転するに従ってバナナなどそこら中で見られるようになり、一番安い果実の一種になった。私はそのことが残念だった。小学校時代の貴重なものの価値が下がるのは自分の夢が消え去るように思えた。

 中学になるとアルバイトをしながら昆虫採集に夢中になった。大阪市からほど近い所に生駒山というのがあって、そこにはしばしば採集に出かけた。お金がないときは家から歩いて行ったりもしたが、大して高い山ではないけれどやはり往復歩いて行くのでとても疲れる。

 昼ご飯を買うお金もなかったので、腹もぐうぐうなっている。帰宅すると伯母さん(一緒に住んでいた)が芋粥を作って待ってくれていることが多かった。米は高かったのか、芋が沢山入っていたので、その方が美味しく感じられた。

 父は早くになくなっていたので、おばあちゃん、伯母、兄弟三人を母が一人で養っていた。だからいつも食べるものには不自由した。そんなときには何でも美味しく感じた。

 時代は少し遡るが私は一日だけ戦争のことを覚えている。家は生野区の町中にあったので、焼夷弾が落ちてくる。母や伯母に連れられて田舎の方に逃げた。母は弟の手をひっぱり、私は伯母に支えられながら夢中で走った。まだ3歳だったから無理もなかったが途中で何度も転んだ。

 やっと田舎の百姓家に辿り着くと近所の人の顔もちらほら見えた。暫く息を沈めているとその家の人がお握りを出して皆に与えてくれた。それがなんと白米だった。当時白米は貴重なもので皆麦などを沢山入れて炊いていた。夢中で頬張った。この家の人は親切で気前が良いと子供心に感謝した。

 おじいちゃんは私が小学校のころに亡くなったが、いつも口癖のように話していたことがある。目白を品評会に出して小さな金を稼いでいる程度だから酒は飲めない。いつも安い焼酎を飲んでぶつぶつ言っている。

 聞くといつも同じで「死ぬまでに一度酒を飲みたい」とガラスのコップの中の液体を見ながら嘆いている。私はアルコールを飲む年になっても焼酎は一切飲んでいない。今の焼酎は美味しいと聞くが飲む気になれない。

 小学校では給食が出た。簡単なおかず、麦飯、それに脱脂粉乳だ。敗戦相手がアメリカだったのが幸いして、アメリカは日本に食料援助をした。それが脱脂粉乳だ。しかしこれは豚の餌にする。匂いも臭い。

 私はどうしても飲むことができないが、飲まないと先生に叱られる。隣の在日の生徒は気にする風もなく飲んでいるので、私の分も飲んでもらって事なきを得ていた。それから牛乳も嫌いになって今でも飲まない。

 私は喘息の持病があるので、兄のように工員になるには体が許さなかった。兄は中学校を出ると家を助けるために工場に働きに出た。今ほど機械化が進んでいないので人手がいくらで要った。兄はもらってきた給料のほとんどを家に入れて母と一緒に家計を支えた。

 そんな中私は母に懇願して高等学校に行くことができたが、電車賃の捻出もままならない。家から高等学校まで自転車で通った。大学に進学するのは無理そうだがなんだかんだとアルバイトをしながら入学金と最初の授業料を捻出した。入学金は10000円、半期の授業料は4500円だった。大学には歩いて通った

 勿論アルバイトをしないとならない。ある段ボール製造会社に職を見つけた。当時家には毎月5000円、今の価値に直すと50000円くらいを入れた。夏の暑い盛り、その会社では「ビール祭り」が開催されてアルバイトの我々も招待された。

 アルバイの同僚が一人いたが、この人はアルコールを飲んだ経験があるらしい。私はまだだったが、社員さんに促されて大ジョッキを飲んだ。同僚はすでに赤い顔をしている。私は不思議に苦も無く大ジョッキを飲み干し、結局2杯飲んだが、一向に酔わなかった。父も母も酒豪だったのでその血を受け継いだと思われる。

 大学を卒業すると経済状態は一変した。兄はその後夜間高校に進学したが、大阪で一番の成績を取り、市長賞を受賞した。その後、独立、富を蓄積した。私は今でいうブラック企業に就職したが、ある日近所の友達と洋酒喫茶(今の呼び名はショットバー)に行き、端から端まで全てのカクテルを飲んだ。たった16種類しかなかったが、それでも相当な量。

 悪酔いはしなかったが二日酔いにはなった。二日酔いとは寝て起きるとまた酔いが復活することで、出勤する電車の中で良い気持ちになってきた。会社では部長や課長が苦々しい顔で見ている。しかし仕事は間違いなくこなした。

 食べ物の恨みは恐ろしい。まだまだ忘れられない食べ物があるが、そんなエピソードを時々友達に話し、呆れられている。

酒巻 修平

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