現在社会が過去より進んだこと

  19世紀から20世紀に掛けて発生した発明が現在見ることが少なくなった。物品的な大発明の最後はコンピューターであろう。コンピューターはもっと前に発明はされていたがそれが大きく普及したのは1940年代と考えても良い。

 それ以降学問の社会では量子力学の進展などもあったがそれが一般社会に影響と及ぼすことは少ない。量子コンピューターが開発されるといってもコンピューターとの関連では速度などの付随的なものでしかない。

 経済は大発明で大きく進歩する。イギリスが経済不況のとき蒸気機関車が発明されそのお陰で不況は解消されたのはご存じの通りだ。

 コンピューターの普及から50年以上経った今経済に大変革をもたらすような発明は絶えた。それでも既に発明されていた家電や車などが普及することで経済の拡大は図られたがどうも今や行き止まりの感がなきにしもあらずだ。

 特に日本を初め先進国では売るものがなく、無理やり小開発をやりながら経済の発展を自ら促している現状は将来を見据えた場合、恐怖さえ感じる。

 文明国でしか使われていないこうした文明の利器が次第にアフリカ、南米など発展途上国でも普及することは目に見えている。そうなれば経済はどのようにして発展させれば良いのだろうか。

 日本では車のメーカーはもう利益を出せないところまで来ているだろうし、家電から撤退する企業も出て来ている。そんな状態は最先進国のアメリカから始まりだんだんと世界に広まって行くだろう。

 さて逆の現象を考察してみよう。発展したのはコンピューター技術、医薬品、医療技術、イベント、交通機関、資金の調達、娯楽、政府による経済コントロールなど決して少なくはない。

 これは発明が途絶えたことで準発明というか改良に人が力を注いだ成果である。発明がなくなり、改良能力が増したということは天才がいなくなり、秀才が増えたことだろうか。

 では人自身のことを見てみよう。平均寿命は長くなった。日本でも非常な美人がいなくなり、非常な醜女も姿を消した。これは天才が居なくなり、白痴も見られなくなったのと同じ種類の現象ではないのか。

 世界各国で混血が進み人類の持つ能力や形が平均化したとも考えられる。もし非常な美人を探したければ混血が進んでいない地域に行けばまだ可能性があると私はどこかで提案したことがある。

 こんなことは証明されていないし、論理的にも正しいかどうか解析することも難しいだろうが、どうもそう思える。

 そんな状態で無理をして経済を発展させる弊害はないのか。物を作ると必ず地球環境を悪化させるし、原材料も無限には存在しない。

 車を欲しくても買えない人がいる。そんな人でも車を持てる時代が来るのは想像に難くない。あるいは住みやすいインフラの整備が全世界で完了するのはいつか。

 どうも人の欲望が全て達せられるのに100年も掛かるような気がしない。そのときは経済発展をいかにして図るかは大きな世界問題になってくるだろう。

 大体未来の予想は当たったことがない。だから私が考えていることも杞憂に終わる可能性が高い。それは人の精神など無形の部分が考慮に入れられていないからだ。

 我々が若いときには石油は40年で枯渇すると予想されていたが、そんな事態は発生せず、埋蔵量の推定は却って大きくなっている。

 私の予想は外れて欲しいがここ10年の動向を見ていると経済の傾向は良いようには行っていない。何処かで転換期があるのか、それは自然にそうなるのか。政府が指導してそうなるのか。どちらにしてもそうあって欲しい。

 人の幸せは精神の満足である。いくら物品を持っていてもその願望は達成できない。その辺にこれからの社会の行く道筋が見つかれば良いと思う。

酒巻 修平

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

前の記事

想定外の不思議

次の記事