進化論構築へのアプローチ

 進化論は生物に関する記述である。非生物である自然は変化をしても進化をしているかどうかということとは埒外である。進化という定義は生物の変化に関する考察である。

 では生物とは何か。どうして生物に進化という現象が起きるのであろうか。現在の進化論をもってしてもこの現象の原因や機序は明らかにされていず、いまだ論争が続いている。

 生物の定義も様々ある。生物は自己複製をする系であると私は定義するが、勿論反対意見も多いだろう。それだけでは不十分であるとの反論を提出されそうであるが、こと進化に関してはこの定義が必要充分条件を備えていると信じる。

 自己複製には二つの種類があり、子孫を残すという意義のいわば垂直のものと自己の細胞を新陳代謝して複製する水平のものがある。

生物が子孫を残すための自己複製をする系であると定義した場合、生物が水平的に細胞を複製するのはこの垂直的な複製の目的を達成するためである。

 生物は新陳代謝して常に細胞を交換しなければ生を保てない。新陳代謝は古い細胞を体外に排出して新しい細胞を生み出す行為だが、これには細胞の原料となる物質が必要である。

 かくして生物は体外からこの原料を調達する。生を営むのは自然にある事物と体内の事物との置換という作業だ。

 生物は絶えずこの置換作業を行っている。置換作業が終了するともう生物ではなくなり、死というフェーズが発生する。

 血は老廃物を体外に放出するために空気を自然から摂取して自身の中に送り込で洗浄する必要がある。動物はO2を取り入れCO2として排出する。だからCの部分だけ体内物質を失う。

 失うということは0に近づくということであるから、補充をしなければならない。食物や水がその原料である。

 植物は逆でCO2を吸収し、O2を捨てる。従って植物は自然に体積が増加するのだ。

 生物は自然と関わっているという以上に自然と一体であると考えても良い。そうであれば進化は自然との関わり合いの中から出てくる可能性が高い。

 ところで英語でEvolutionを日本語では「進化」と訳しているが、進化という言葉は現象を的確に表現していると思えない。

 この所謂「進化」という現象は何かの原因で新しい種が生れる「変革」あるいは「変貌」というような作用である。

 社会的には革命が王政を倒し人民による政府が誕生するような革命的な出来事である。しかし底辺には人民が存在し、そう言う意味では人の社会が滅びるということではない。このようなことが生物に起こればそれが進化である。

 Austhlopitecus afarensis がPithecanthoropus electusに変幻したかどうかは分からないが、兎に角、ある種類の生物が違う種類に変化するような変革、変貌を日本語では進化と称している。

 進化論ではダーウインや日本では今西錦司が説を述べているが、全ての人を納得させるまでには至っていない。ダーウインは進化という現象があり、人も違う種類の動物から進化をしたと唱えた。

 これは当時の社会情勢下にあっては画期的な考え、発言であった。そのことにダーウインは功績があったが、進化が如何にして何故、どのような状態下にあって出来したかを説明できていない。

 今西錦司はダーウインの節を不服として自身の論を展開しているが、どちらも事実を社会科学的、帰納法的に考察しただけで、生物の体が如何に機能して進化したか生物学的な証拠を示し得ていない。

 この現象が進化という言葉で定義付けられているなら、以降進化という言葉を使うこととする。

 さて生物が自己複製する系であるとすると少なくても雌雄一対の生物の存在が必要である。人を例に取ると男女一組がいなければ子供を産む即ち自己複製することができない。

 今西錦司はラバのことを述べている。ラバは雄のロバと雌の馬の交配種であるが、子供を産めない。即ち自己複製できない。これは生物ではないし、自然物でもない人工物である。

 進化をし、種として自己複製を連続するのはそれに足りる数の雌雄の個体が出来なければならない。この点は今西錦司が述べている「種は一挙に進化する」というのが正しい。ダーウインは進化は長い時間を掛けて進むと述べているが、これには疑問が残る。

 どちらも現象からの帰納法的な論理であり、証明がされていない。その証明、説明の前に解明しなければならないのは生物が自己の生体をどのように制御しているかであろう。その説明がない限り進化に関する証拠を見つけることができない。

 生物の生体の制御方法、機構はまだほとんど解明されていない。しかし人の心臓や腎臓その他の器官は誰のでもいつでも同じ動きをしている。その事実から論理を展開すると各臓器、器官には前以て決定され組み込まれた仕組みがあるのである。

 そしてそれぞれの器官が調和しながら生の保持という作用を果たしている。そうするとその指揮を担当する器官もまた必要である。それが脳だ。

 それぞれの器官は器官内に既成的に組み込まれているシステムで動きその作業結果を脳にフィードバックする。脳はその情報を受け取り、例えば血流が足りなければ心臓、肺臓に命令し働きを強化させる。

 そんな情報の伝達はどのようにされるのか。効率よく、迅速にかつ各種の器官間の連絡という複雑な作用をするにはどのように方法が良いのか。

 伝達物質が脳から発せられるのか、ホルモンの作用か。しかしそれらの物質を体内に行きわたらせるには時間が必要だ。それでは間に合わないケースもあるし、作業量をこなせない。

 それを解決できるのは最速の光あるいは電気であろう。光や電気は同一の存在の表裏のフェーズである。体は二進法的に電気信号で情報のやり取りをするのだ。これが正確、迅速かつ大量の作業をするにはもっとも都合がいい。この作業を理解するにはコンピューターの動きと比較するのが手っ取り早い。

 脳は体の状態に合わせて自動的に作業プログラムを構築する。それはコンピューターにはない機能で、これが原因で生物特に人の生体の状況、活動が変化する。解明困難であるこの機能は生物に特有だが、進化はそのような脳の作用から発生した可能性がある。

生体はアナログである。腎臓の作業を活発にするには脳はそのような指令を発し、インシュリンなどを多く排出するように仕向ける。電気信号はデジタルでデジタル命令がインシュリンというアナログを発生させる。人を含めた生物が生を全うするのはアナログ-デジタルの相互作用による。

 上記のように進化が発生し進化した新しい生物が存続するにはある程度多数の個体の存在が必要だ。今西錦司の唱えている論はこの点では正しい。そうであるとすると種全体あるいは大多数が同時に進化しなければならない。

 そんなことはどうすれば成立するのであろうか。種と種を区別するのは何が基準であろうか。生殖細胞のどこがどのように違うと言うのか。このような生物学的、生理的な考察、証拠もなく進化のことを述べるのは科学的ではない。

 進化した生物が自己複製即ち子孫を残すには生殖細胞の遺伝子が進化していなければならない。ラマルクは獲得形質が進化の原因になるとの説を発表したが、後に獲得形質は生殖細胞に連結していないとされ、それが定説となり、ラマルクの進化論は一時ほぼ忘れられた。

 その根拠はこういうことだ。尻尾を切った雄雌の鼠の子供が尻尾を持って生まれるということが確認され、筋肉を増強した人の子供の筋肉は普通の子供と変わらない。従って獲得形質は遺伝しない。

 こんな非学問的な論がまかり通る社会や学会のあり様には驚きを禁じ得ない。鼠の尻尾を切り、人の筋肉を増強させてもそれは獲得形質とは言えない。人為的なそのような状態を作り出しただけで、どうしてそれを獲得形質と言えるのだろうか。

 学者の欠点は自己の精神の満足のため、往々にして我田引水的で証拠や説明のない論を展開することである。かつてアインシュタインが言った「事実は事実という証明がなされない限り事実ではない。事実ではないとされていることでも事実でないと証明されない限り事実ではないとは言えない」はけだし名言である。

 突然変異や自然淘汰を原因として進化が発生すると言ったダーウインの進化論には証拠が提出されていないし、間違っているとの意見が多い中、その進化論を少しずつ変化させながらダーウインは正しいとする学者が大勢を占める。

 一方で今西錦司はダーウインの進化論の欠点をあげ、持論を展開している。今西はダーウインがイギリスの社会風土と先達の論に影響を受けて進化論を展開したが故に受け入れられ、自分は日本人であるので不当に受け入れられないとしているが、今西の理論はダーウインに増して社会科学的であり、さらに牽強付会的である。

 進化が何故起こるかということを証明するには生物の制御機構、種間の生殖細胞の相違などを通じて論じなければならない。それがなく目で見、頭で考えただけの理論の展開は学問的に不足と言われてもやむを得ないだろう。

 しかし生物が進化しているのは現実である。どのように検証してもそれは事実であるし、アインシュタインの「事実の証明」はできていると信じる。そこにはなんらかの理由や原因がある筈である。それを解明し、生理学的にあるいは物理学的に証明しながら進化論は展開しなければならない。

 学問的なアプローチで種々の考察や実験からある思い付きが発生し、それを発展させると仮説になる。その仮説に対して確かな証拠と説明がなされれば仮説が確かな論に昇華する。

ところでこの世の生物は、遺伝子的にまったく新しい形で 10万年から20万年前の間に突然登場したと唱える人が現れた。何十万種の生物の遺伝子の詳細を明らかにしてその結論を得たと言うのだが、それが事実とすればその人の唱えている論は事実に基づくと考えられる。

するとその進化が発生した時代には何かの原因物質あるいは状況が出現したと考えざるを得ない。今までの進化論を全て白紙にして、新しい理論を構築する段階に至ったのではないか。

生物の機構が如何にしてアナログの体を制御しているかを解明し、その過誤や状況変化に対する制御プログラムが如何にして作用を果たすかを検証することを先ずやらなければならない。その上で進化という現象がその生物に発生した機序の解明が必要である。進化論は社会科学ではなく、生理学、物理学的である。

酒巻 修平

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