スポーツ団体、選手と役員

オリンピックで金メダルを取ったザギトワ選手が帰国直後から練習を始めた。練習は過酷を極め、この世界最高峰にいる選手がコーチにこっぴどく怒鳴られスケ―ティングのやり方を修正させられていた。

 ザギトワは涙を流しながらコーチに従っていたがそこには厳しさ以外の何物も見出せなかった。コーチはザギトワを虐めているのではなくより良いスケーティングをさせるために真剣にアドバイスしていた。

 今テレビで話題になっている体操競技の選手が訴えている問題はザギトワ選手の過酷な練習とは全く違うものだ。

 最近この女子体操選手の問題だけではなく、柔道、相撲、レスリング、アメリカンフットボールその他でも競技団体の上部委員(役員)と選手間や下部の委員とのトラブルが続出している。

 これは今に始まったことではないだろう。人権問題が喧しくなってから報道されているだけでずっと以前から存在していた問題である。

 能力や実績が抜きん出た選手には役員たちも態度を柔らかくさせていることも報道されている。

 相撲では白鵬。この男の行動はどうしても許すことができないことが多い。しかし相撲協会はそれを咎めないで無視する態度に終始している。

 日本には「長いものには巻かれろ」という格言がある。スポーツ選手と団体役員の関係はこの最たるものである。

 スポーツ選手はどんな優秀な成績を収めても社会的な観点からすると単なる一般の未熟な若者に過ぎない。

 その若者たちが社会経験の豊かな競技団体の権力者に歯向かうことなど到底できることではない。権力者は自分の利益のために事実を巧妙に隠蔽し、捻じ曲げ、言葉を変えて事実を違う方向に持ってゆく言わば悪い能力に長けている。

 この犠牲になるのがやや能力が劣るか、権力者の意思通りに動かない選手である。権力者の意思が正しい方向に向いていればそれに従わない選手は譴責されても仕方がないだろう。

 しかし勇敢に歯向う選手が訴えていることは権力者の歪んだ意思に対してである。最近話題の体操競技の場合など大きい大会、例えばオリンピックに出るための競技大会への優先順位の変更、あるいは練習場の使用に対する公平性を欠く決定。そんなことにも不満、不平が溜って仕方なく訴えているのである。

 アメリカンフットボールの権力者だった男が選手に人道的にも許されないような行為を強制した問題があった。この場合は幸いにも証拠が公表され権力者は権力を奪われた。これは正しかった。

 こういった問題は何故起こるのか。テレビでは解説者が出てきて分かったような分からないような皮相な解釈を述べる。しかし核心には到達できない。何故なら彼らは競技選手の立場になかったか、あったとしても分析能力に欠ける。

 競技団体という組織は何のためにあるのか。簡単である。選手のためにあるのだ。この単純な事実を誰も言わない。何故か。テレビに出演する人物自身が一種の権力者だからだ。

 競技団体が選手のためにあるなら評論の仕方もその観点から行うべきであるし、問題の分析の結果も違ったものになるだろう。体操競技の第三者委員会という団体の構成員が出した結果も不条理である。

 表現を見ると全て権力者側の観点からのものだ。選手を育成するのが団体の役員であり、彼らは目的のためには無私の精神を持たなければならない。そんな精神はなくただ自己の利益のために団体があるのだ。

 選手が引退して団体の構成員になると選手時代とは違う精神、能力を必要とされるのは当たり前のことだ。会社を経営したことがある人ならこんなことは言うまでもなく理解できるだろうが、団体を束ねるには相当高い能力、精神が必要である。

 種々の競技団体の権力者たちはそんな能力を持っていないことが多い。これがスポーツ団体の実態であるから、同種の問題は今後止むことなく続くであろう。

酒巻 修平

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