男女同権、美醜同権

男女同権が叫ばれてから幾年が経過したであろうか。本当に男女同権というスローガンは実行されているだろうか。あるいは行き過ぎの同権と言うことはないだろうか。

 私はこの行き過ぎを危惧している。権利というくらいだからそれと付いて回るのは義務である。男性が夜残業で10時まで働かなければならない環境に置かれているとすれば女性も同様な義務が課せられる。

 男性と女性は考え方、体力、腕力、耐久性、辛抱強さ、真の優しさ、その他違いが大きい。出産しある程度の年齢に達するまで子供を育てるには母親たる女性の存在が欠かせない。

 物質だけの面を捉えると集団で食事をさせ、風呂に入れ、その他養育は母親がいなくても可能であろうが、精神の面を考えると母親の無償の愛は子供の健康な発育にはなくてはならない。

 現在社会ではこの精神面の考慮が足りていないように思える。同権というからには同能力が求められるが男性は女性のように子供を慈しむことができるだろうか。

 同権を叫ぶのは容易いことだが大きな危険も孕んでいる。女性は男性より辛抱強いが体力では劣る。その女性を男性と同様夜10時まで働かせて良いものだろうか。

 昔が必ずしも精神的な社会風俗が良かったとは言えないが、今から50年ほど前家庭内のことは妻たる女性、外交的なことは夫たる男性が担っていた。

 もちろん例外はあっただろうが、それが社会の根幹的な考えだった。軍隊で女性は後方支援などを担当することは可能だが最前線に立って男性なみに戦うことは不利である。

 総合的に考えると男性と女性の能力は同一かも知れないが、局面局面で能力が異なるのは生物学的にも止むを得ないことなのだ。社会の構成員全員にこの同権を当て嵌めようとするとそれは却って歪な現象が起こすだろう。

 女性の患者は男性の看護師に体の清拭をやってもらって良いのだろうか。体の構成一つを考慮しても男性と女性には大きな違いがあり、この違いから子供が生まれてくるのだ。

 男女が同権であるということはもう少し違いが少ないことでも同権が成り立つと思われる。女性の美醜はどのように判定されるか判然としないが、女性の美醜は同権の範囲外として扱われるのだろうか。

 美人でない女性はテレビには例外以外出て来ない。これは同権を無視した出来事ではないのか。違いが大きい男性と女性間に無条件に同権が成立するとすれば違いがほとんどない美醜の女性間にも同権が成り立つと思う。

 ところが社会では所謂美人が優遇され不美人は冷遇される。何故なのか。もともと社会は不平等で成り立っているのだ。それでは動物社会のようだから不平等をできるだけ解消しようと努力する。ここに文化が発生する。

 しかしそれが行き過ぎになると社会は却って同権の意義が消滅すれのではないか。どうして女性の看護師は昔のように看護婦と呼ばれなくなったのか。どうもここに政治家の薄汚い票集めの手段が見え隠れしてならない。

 ある局面、例えばコンピューターへの入力について賃金は男女同権利、同義務があるべきであろう。しかし軍隊ではそうはならないし、幼稚園でもそうだ。

 この件で何人もの若い女性に意見を聞いてみた。ほぼ全ての人が男女同権などどうでも良いということだった。我々が若いとき女性とデートをすると男性が必ず費用を全額負担した。今は二人で割り勘にする。何だかせちがらいし昔の女性の方が幸せそうな表情をしていた。

 そのころ女性は体力的社会的に弱い存在だった。だから男性が助けたのだ。そんな風習はなくなってしまった。現在アメリカ人の男性はアメリカ人の女性とは絶対結婚しないと言っている。

 あるアメリカ人の友人が妻と離婚した。話し合いが折り合わず二人は弁護士を雇い、結局離婚を申し出た妻の方が慰謝料を支払って解決した。どうも嫌な話だ。

 私はそんな風潮を肯定していない。女性と食事を共にすると必ず全額私が支払うことにしている。

 男女同権が完全に成立するのであれば上記の美醜同権、老若同権、職務上下同権、健常者障害者同権、どこまで行ってもきりがない。どうしても男女同権に拘るなら男女同権同義務として欲しい。

酒巻 修平

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