一秒で何ができるか

 一秒はほんの一瞬である。しかしその一瞬のうちにできることは多い。目で見て、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わう、あるいは手で触れて感触を掴む。五感は全て一秒の内に作用をなすのだ。

 顔にはその全ての感覚を司る器官が集中していて、人の一番大切な作用がなされる。そんな感覚だけではない。脳は一瞬のうちに宇宙の果てまで思考を走らせることができるし、これからやろうとしている行動を決定することもできる。

 それらが全て1秒以内でできるとは動物、特に人は何と素早く物を処理するのか、驚くべき造形物だ。

 そんな作用が1秒以内でできるということは人の全ての作用が電気信号で処理されている証拠とも言える。目で見たことが脳に伝達され、記憶として残る。

 コンピューターでは手で入力しなければならないし、写真に撮るとしても1秒では少し足りない。ここにデジタルの作用の俊敏さがある。

 夜部屋に帰って来て電気のスイッチを押すのも1秒でできるし、一歩歩くのだって1秒だ。ドアノブを回す、コップを掴む、箸を持つ、ごはんを一噛みする、テレビのリモコンを操作する、キーボードのボタンを押す、水道の蛇口を捻る。

 日常生活の全てが1秒の累積から成り立っていると考えたことはないだろうか。しかし無為に過ごす1<秒もある。

 それも累積すると何もしない1秒が大きな作用の欠落に繋がるのだ。何故なにもしないのか。もちろん故意に頭を休めるということもあるだろう。しかしそれは無為ではない。頭を休めるという行為だ。

 茶の湯の作業を観察すれば分かるが、一つの作業と次の作業の間には継ぎ目がない。湯飲みを持ち上げると次の作業まで休むということがないだろう。一つ一つの動作がゆっくりでも全体的に見ると作業は遅くないはずだ。

 一秒を大切に扱うということがこの芸術の一つの眼目であることには違いない。茶の湯の席にいたこともないが、どう考えても戦国の世、武将が慌ただしい中、ゆっくりとした作業の中で早く物事を処理する文化を作り出したとしか思えない。

 一秒は大切なのだ。そんな慌ただしいことを考えていると疲れると言われそうだが、そうではない。スポーツは1秒を争う競技だし、どんな動作も1秒の積み重ねで成り立っていると考えればこの1<秒は無駄にできない。

 一つの作業を早くやろうとしてはいけない。茶の湯に習って、動作と動作の間隔を失くせば良い。野球でボールを受けてからそれを手に取り、投げる。これは3つの動作から成り立っているのは誰でも分かるだろう。

 しかし大リーグの野球を見ているとその3つの動作が一つになっている。即ちボールを受けて、手で握り、投げるこれが一つの動作として処理される。

 その時ボールを受けて一呼吸あり、手で持ちまた一呼吸おいて投げるとランナーを刺すことができないことも多いだろう。

 家から駅まで1000歩とすれば1秒が少なくても1000個ある。歩く目的はある地点から次の地点に自分の体を移動させる行為だが、脚は忙しくても頭は同時に使える。

 ゆっくりと歩くと脳は軽い振動で働きが良くなるらしく、ソクラテスは弟子たちと歩きながら哲学論争をした。彼らは逍遥(歩くという意味)学派と呼ばれた。

 朝家を出る時考えるテーマを前以て頭に入れておくと良い。駅に着くまで素晴らしい結論が出ているはずだ。そうでなくても考える物事にまつわるトラブルも見えてくるだろう。

 夕食の材料を買う時もそうするが良い。アイデアが思い付かない場合は見てから買うのも方法の一つだが、毎日はそうではないだろう。材料を覚えておけば買い物が相当早くできる。料理の時間も少なくて済むだろう。

 生活は全て1秒から成り立っている。1秒を無駄にしてはならない。頭を使う時間、休める時間。全て1秒から成り立っている。

1日は86400秒である。その1/<3でも有効に使うことを考えれば時間は沢山あるものなのだ。

酒巻 修平

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