上品なことを考える人の顔は上品である

 いつも筋肉を使っている人の筋肉は強化され、形も変わってくる。アインシュタインはいつも物理のことを考えていたから考える顔になってしまった。

 暴力を常に揮うことを考えている人は表情にそのことが現れる。こんなことは当然である。歳を過ぎたら自分の顔に責任を持たなければならないと昔の男はよく言われた。

 誠実な人は誠実な顔になるし、物事を考えない人の目はどんよりとしている。女性が上品な顔になりたいと思えば簡単だ。上品なことだけを考えていれば良いのだ。

 ある権利にはその裏側に義務があり、表裏一体バランスが取れていれば普通の人だ。権利を声高に叫んでいる人は義務を忘れがちで、こんな人はどこか下品な感じがするものだ。

 義務は社会生活をする上で自分には表面上の損害が何らか発生し、権利は短期的に見ると利益が発生する。だから義務を先に実行しようとする人はその時は誰かに利益を与えている。

 商品を購入すると支払い義務が発生し、運賃を支払えば電車に乗る権利が与えられる。当たり前のことだが社会は権利と義務で成り立っているものだ。それが崩れると社会は成立しなくなる。

 だから男女同権は男女同義務と同義だ。しかしその義務の部分は表現されていない。ここに政府のまやかしがあるのだ。

 女性は昔と違って家庭生活を営んでいく上で必要経費を拠出しなければならなくなった。今までは夫が働き、妻が家政を取り仕切った。今は男女同権が叫ばれるが、それは権利と義務の形が変わっただけだ。

 昔は三食昼寝付きという権利と炊事、洗濯、掃除という義務があった。食事に行くと男性が全ての費用を負担するし、夫は収入の全て妻に拠出した。男性は働き少し威張る権利があったが、女性を守る義務を持っていた。女性は男性に働かせる権利と子育てをする義務を持たされた。

 義務は辛く負担で、権利は欲望と快楽を得る。上流の家庭ではまず義務を果たすことを教え、権利は自然とついてきた。貧困な家庭では先ず権利を得なければ食料にもあり付けなかった。

 だから昔は経済的に裕福な家庭の女性は上品で、その逆も真であった。それがそんな風潮はなくなり、先ず権利を主張して義務はできるだけ果たさないという現実が生れた。

 これはアメリカからの輸入で、権利だけを主張して義務を果たさないことを「smart」と呼ぶ。だからアメリカには美しい人がいても上品な人は例外以外にいない。安倍首相は上品な顔立ちをしているが、トランプはそうとは思えない。

 道ですれ違う時は相手に道を譲る。チンピラはこんなこともできない。1350円の割り勘の時は700円を負担する。待ち合わせに時間には相手より少し早く到着しておく。こういう繰り返しが上品な顔を作る。何故なら脳が筋肉を支配するからだ。

 今の店員は店内で客とすれ違っても客に道を譲らない。今はなくなった銀座8丁目の「千疋屋」という喫茶軽食堂では客とすれ違うと店員は通路に立ち止まり、端により客の方を向いて客を通したものだ。

 与党の批判に明け暮れる野党女性議員。自国の非を棚に上げて延々と不合理なことを述べまくる女性評論家、平気で遅刻する女優、電車に乗ると我先に席を確保しようとしている女性。

 話し相手の言葉を良く聞く女性、会社へ早めに出社する女性、適正な価格を保ち質の良い商品を供給する女社長、隣の席のデスクも清掃する女性社員。

 どちらが上品な表情になるだろうか。若い時は生まれ付きの顔が左右するが、歳を過ぎると上品、下品の顔が別れる。

 日本はますまずアメリカナイズされ、マネーオリエンティド(金銭第一主義)になった。金を受け取るという権利を優先し、義務はできるだけ少なく履行する。そうなって上品な表情をした日本女性が少なくなったのは悲しい。

酒巻 修平

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