美とは何か

 美というものは人が感じ、誰もが欲するものである。しかしその美とは何であるかということを説明するのは大変難しい。

 これは脳という人の器官が認識するもので、従って脳はどのような機構があるのか、その作業、作用はどのようにどこに伝達されていくのかは一部を除いて解き明されていない。だから脳の作用に関わる美については考えることができない。

 脳を離れると分かることもある。美を感じることを媒介するのは目と耳である。舌は美味しいと感じるがそれは美ではない。鼻も匂いに対する処理機関でしかないので、ここには美という感覚がない。触覚もそうだ。

 ではどういうものを美と感じるのか。対象物は何かと考えた時、そこには個人差があるような気がする。赤と緑のコントラストを美しいと感じる人もいるし、黄色一色を美しいと感じる人もいるだろう。

 しかしどこか根本的な美の要素もあるようだ。富士山を見て美しいと感じない人もいるかも知れないがそれは例外的であろう。だが倒壊した建物などは美ではなく醜で美とは反対の感覚をもたらす。

 人が子供から大人に成長するに従って美の対象も変化していくように感じる。そうだとすれば美を感じる脳も変化するのであろうか。それは何故だろうか。色々な種類の美を感じたのが経験となってより大きな美を追求するのだろうか。どうもそうではなさそうだ。

 コモ湖付近の水で染色された色は独得な深みがあり、美しい。だからイタリア製の洋服は珍重される。日本の絹織物もそうだ。タイ辺りのシルクは光沢があり過ぎ、日本人には日本の絹の色の方が美しいと感じるだろう。しかしタイでは逆かも知れない。

 造形、色、その配置などが美の対象になりそうだと思う。耳はどうだろうか。バッハのアリアという一節(G線上のアリアというあれ)はとても美しく感じる。これは耳の役目だ。京都の地歌の音律も美しい。

 そうすると美は色調、波長に関係するのだろう。確かに和音は調和が取れて美しい。不協和音は不快感を与える。だから一定の音の波長の合算が美を作るような気がする。ラとドの合算音は和音で、片や440振動、片や523振動である。

 反対に隣合わせの合算音は不協和音である。そうすると振動数の差がなさすぎると不協和音になるようだ。

それでは色に関する美はどのような色調、波長、波形なのだろうか。可視光線は波長の長い順に並べると赤、橙、黄、緑、青、藍、紫である。でも青でも薄い青から濃い青がある。その濃さがあまり変わらない青を隣に配するとどうも合わない。美しくない。

ここでも波長の差が少ないと合いにくい、美しくないとなる。そうすると美は波長と深い関係にあり、だから目と耳だけが美を感じるのだろう。味には波長がないから美味しいが美ではないのだ。

 音の大きさはどうだろうか。しかしそれはダイナミズムを感じても美というもとは違う種類の感性である。

 音楽は楽譜に表すことができるようになった。そして楽譜を演奏することにより美を再現することができる。

 では目を媒介にした美は色譜やデザイン譜などで再現可能であろうか。それはまだできていない。できれば面白いだろう。

 音が和音として表わることができるのに対してデザインは形の調和であり、これを和音と言うような表し方はない。複雑過ぎてできないのか、誰も考えなかったのかは知れないが現在は存在しない。

 では単体の音、色には美はないのかと言えばあるのだ。美しい色、美しい響きは確かに存在する。ではその美はどういうことで表すことができるのか。音では波形の美しさであるが、色も同様だ。

 音も色も美しい時は波長の調和が整っていることだ。ここでも波長の関係が出現する。

 そうすると美とは波長と波形の調和によって形成されると考えられないだろうか。では音と音の時間は関係があるのか、色と色の距離的バランスはどうかというとこれも関係がありそうだ。

 形はどのように分析したら良いのか。直線は別に美を表していない。やはり曲線が関与しないと美は感じられない。そうするとそれは曲線や直線の距離や各々の大きさが関与すると思われる。

 総合すると美は数値で表すことができる波長の調和がもたらした結果を脳が感じた現象である。どんな調和を美と感じるかは実験によって確かめられるが、脳がその調和はどのように美として捉えるかは生理学の話しだ。

 脳は数値を認識するのを得意とする。色の波長、音の波長、そしてその間隔。全て数値として捉え美であるかそうでないかを認識して美を決定するのだ。

酒巻 修平

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