終戦日の白米

 白米とは麦などの雑穀が混じっていない米だけのご飯のことです。江戸時代は米を基準とした経済が主流であった。その当時米の集積地の江戸では白米が食べられることを自慢していたらしい。

 時が経ち、日本が第二次世界大戦の主戦国となって経済が破綻すると米は都会に住む人たちには充分供給されないようになった。

 米軍は一般市民を殺害するために大阪や東京などの主要都市に焼夷弾を何百万発もB29爆撃機で投下した。今なら大きな非難を浴び、戦争犯罪を構成するような戦争方法も当時は全世界の大多数の国が戦争に巻き込まれて行ったので、非難をする国もなかった。

 ある日その焼夷弾の投下が私たち家族の住む近くまで及んできた。B29が来襲すると警戒警報が発せられる。その時間は夕食前で粗末ながら食事の用意がしてあった。そんな時この警戒警報が鳴り渡った。

 公園の向こうの家が焼かれ、近隣の住民にも命の危険が迫る。夕食どころではなくなった。防災頭巾を被せられ、両親に手を引かれ安全な農村地帯に向けて、逃げ始めた。

 私はまだ三歳半。ちょっとした溝なども自力で越えることができない。何度も何度も転がったし、とても怖い。親たちは必死だ。そして何とか農村地帯に辿り着いた。

 戦後はその辺りにも住宅が建てられて今は昔の面影のかけらもないが、田には稲が育っていた。ある大きな家に避難させてもらうと、そこには大きなテーブルが容易されて、山盛りの握り飯を盛った大皿が載っていた。

 避難してきた人の中には見知った顔があるが、挨拶どころではない。恐怖は去ったが、誰もが緊張している。

 そこへその家の主婦らしい人がやってきて、その握り飯を食べても良いと思わぬ提供をしてくれた。我々は一瞬あり得ない行為に黙ったが、一人の人が食べ始めると全ての人が握り飯に跳びついた。中には両手に持つ人もいる。

 残り少なくなると次の大皿を持ってきた主婦は更に食べるよう勧めてくれた。皆は手を合わせて感謝している。私も沢山食べた。

 握り飯は白米であった。いつも麦が半分以上入っているご飯を食べていた舌には味わったことがないような美味。農村の生産者と都市部の消費者の食料事情はこのように違った。

 幸い公園からこちらは焼夷弾が落とされず、延焼も免れ、家は残った。後から聞いたのだが、その日は日本が降伏した前日であった。日本は戦争に敗れ、天皇も危うく戦犯に処せられるところだった。

 終戦後天皇陛下が各地を慰問に回った。しかし両親は戦争を始めたのは天皇が軍部を抑えられなかったからだとの意見を持ち、天皇を尊敬しなかった。

 それから米は配給制度となり、完全に流通の制御が消滅したのは1994年になってからだ。それまで実質的には政府が管理しないで、生産者から消費者に販売が直結するシステムが自主的に構築された。それによって流通した米を自主流通米と言った。しかし名前はそうでも法律上は闇米(法律違反で流通した米)であった。

 今も政府は米に関しては奇妙な制度や法律を設け管理しているがそれは適正なものとはほど遠い。

 減反制度などを設け余剰米が出ることを禁止したが、海外への美味しい日本の米を輸出する援助をするなどの方策は一切取っていない。

 ある年は天候不順で日本米が不足した。その時、オーストラリアに米を輸出することを要請したが、この国はそれを拒否した。理由は覚えていないが、食料の自給が如何に大切か思い知らされたものだ。

 政府は各国から食料の輸入に関して門戸を完全に開くことを要求されている。しかしオーストラリアのように輸出を拒む国があったり、終戦前日のことを思い浮かべると少なくても米や小麦の自給率を高める政策は堅持すべきだと思う。

 今はパンを食べる人も増えている。若い人は戦中、戦後の食糧事情がどのような状態であったかなど知る由もない。現役の政治家もそんな状態を知らない人が多い。それで良いのか。

酒巻 修平

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