友達とは何だ

 先ず友達に対しては悪感覚がないだろう。悪感覚が発生すると友達ではなくなるし、親友とさえ絶交することがある。

 似た言葉に知人と言うのがある。他人に知人と言えるにはやはり悪感覚がないからで、嫌なおやじを知人とは称したくない。

 また親友とは友達の中でどういう地位を占めるのだろうか。付き合いが長い、あるいは助け合うことがある。自分が一人になって時会いたくなる特別な友達ではないか。

 史上最高のテノール歌手の一人エンリーコ・カルーソーは大作曲家が貧困に陥って、食べるものがない状態になった時、自分の財産の半分を提供した。また最近亡くなったルチアーノ・パバロッティは友達のホセ・カレーラスが白血病に罹患したとき治療費を出してやったと聞いている。

 江戸時代の日本の武士は親友のために死を選んだ人もいるという。現在ではそんな事案が起こるかどうか、分からないが、少なくても過去にはそんなことも起こったであろうことは想像に難くない。

 今の人には友達がいるのだろうか。私にも友達がいたが、種々の理由でその人たちが目の前から去って、現在では友達と言える人がいないように思える。

 勿論尊敬する人はいるし、好感を持っている人も多い。しかし友達の定義を考えた時、本当にあの人は友達だと断言できるかと言うとなんとも言えない。

 何かの折に助けて貰った人には恩を返そうと思っても、こちらに金銭的な余裕がなければ金では返せない。誠意で接しても恩を返したこととはならないだろう。

 どうも友達とは困難に直面した時に助け合うことができるかどうかとも言える。それは今の感覚では親友ということになるのであろうか。

 だが現在は江戸時代と違って困難、特に金銭的な困難は少なくなった。だから友達感覚が芽生えにくい。特に女性には真の友達がいないとされていたが、今や男女同権。助け合う場面もあるだろう。その時に助け合うような相手は友達と定義して良いように思える。

 友達は長い時間一緒にいた、あるいは戦争などの困難を共に乗り越えた関係である。戦友とは将に友達の最たるものだ。その他学友など年齢があまり離れていないのも要素だろう。

 30歳男性と60歳女性が友達になることはない。男女でも友達になれるという人もいるし、いや、異性は無理だとの意見も根強い。

 しかし友達は欲しい。どうすればできるのか。それは譲歩がその人に対してできるかどうかでも決まるようだ。いつも自分の主義主張を繰り返していれば友達感覚は生まれない。

 科学者は自分の理論に反対する相手とは友達になれないだろう。友達になるには共同研究など同一の理論を持つことが必要なことのようだ。

 相手の言い分ばかり聞いて譲歩しているとそのうち我慢ができなくなり、離れてしまう。そうすると相手とこちらの考えがある程度同一であることが必須かも知れない。

 いつも話し合える友達を持っている人は幸せだ。年を重ねると生活環境の違いで考えも変わってくる。いつまでも友達でいられるのは生活レベルが同一であることも大切だ。

 このように考えると友達感覚が生れるのは「同一」というのが最も大切なのかも知れない。夫婦が仲良く一緒に生活するにはこの「同一」がどこかになければならないような気がする。

 アメリカでは何度かビジネス上の取引をしてトラブルがない担当者同士が「friend」という。やはり同一土壌でビジネスの感覚を共有したことがこのような表現を生み出すのだと思うと興味のあることだ。

 夫婦は元他人。その二人が長く共同生活をするには育ってきた環境、能力、知力、親の経済力、考え、行動スピード、その他同一な部分が多くないとならないだろう。同一の部分が多いほど、夫婦仲は良いのではないかと考えている。

 友達は努力次第でできる。ということは友達を持っている人は何かしらの努力をしたのだろう。

酒巻 修平

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