定年制とは何か

 ある程度の高齢に達した人は働かない、働きたくないという心裡が働くようになる。これが江戸時代の隠居制度である。そしてそれが定年制の精神的な根拠になった。

 だが実際の定年は1923年の関東大震災とそれに続くように発生した1929年の世界大不況に端を発するようだ。

 だがその当時定年退職した人たちはどのように生活したのか、つまびらかではないが、相当な生活苦を味わったと考えるのは難くない。

 即ちこの定年制は精神的な要素を除くと実質的には会社の一方的な事情によるものだ。会社とは一体従業員のものか、資本家のものか議論も生まれてくるが、会社という団体が従業員を強制的にある一定の年齢になると退職させることなのだ。

 これは今の法的解釈によると年齢による差別に当たる。アメリカやイギリスではそんな意味合いで定年退職制がない。

 日本では未だに金を持っている人、社会的地位が高い人が一方的な不利益を下の人に与える。そういう観点から日本国を見てみると日本はまだまだ民主的とは言えない。

 65歳くらいになると会社は社員に定年を言い渡す。言い渡された人は健康で頭脳の衰えもない。経験や思考能力は若い人より上であろう。どうしてそんな貴重な人材を定年という名の元に強制的に退職させなければならないのか。

 我が社にも退職制度のようなものがある。「能力が仕事をするのに適さなくなった」「健康が害されて働けなくなった」「老齢ということを感じて働く意欲がなくなった」というのが制度である。

 ある年学校の同級生の間で同窓会が開かれた。定年で職業がなくなった人はどのように余生を送るかを考えている。喫茶店をやりたいという人、趣味に生きたいという人、それぞれが余生に付いて考えている。

 しかし余生はどう考えても余生だ。自分自身の会社を立ち上げ、自由になった時間を活用して大いに活躍しようとする人は少ない。

 それから3年。また同窓会がある。集まった人を見ると見知らない顔が多い。しかし良く見るとどこか昔の面影が残っている。そうだ、彼らは老人になってしまったのだ。

 働いている人(何歳でも=多分自営か)は誰も老人に見えない。大会社で定年を迎えると老人化が始まる。何か新しいことに精力を注げば良いのだが、大会社では会社のシステムを使って仕事をしていただけ。そこでは自分自身の思考とう作業は入る隙はない。

 記憶力は当然のように減衰し、思考力は元々ない。思考して独自の考えで仕事をすれば会社の組織と齟齬を来す。喫茶店をやっていた人も客の入りが少なくて止めてしまった。

 同窓会は老人ホームの集会になってしまった。私は失礼だが、もう同窓会に出席する意思を持たない。

 これは社会の損失ではないか。若い人材を育てるあるいは登用するという意味があると会社は言い訳をするが、長年会社のために働いてきた従業員を簡単に辞めさせてしまう。

 なんとも人情味がないし、この人材不足の時代、若い人はある程度年齢を先送りして重要なポストに付けさせれば良いのではないか。定年制がなければ今若い人もずっと働けるので、65歳になってやっと部長になる人も出るだろう。

 一般的に年の若い人は年上の人に命令を下し難い。しかしこれは心理的なことだけで、高級官僚はそうしているだろう。だから一般の会社でも若い優秀な人を重要なポストに付けることに大きな支障はないはずだ。

 定年退職=人生の墓場への花道。この構図は改めなければならない。そうすれば年金の支払いは少なくなり、本当に年金を必要としている人により多くの年金を支払うことができるだろう。

 後は学校を卒業した人の就職の確保はできるかどうかの問題が残る。高い年齢の人が会社を辞めなければその分若い人の就職が困難になる。しかし今は労働力不足の時代だ。これから人口が減少するのか、あるいはまた増加に転じるのか分からないが、労働力はもっともっと必要になるだろう。

酒巻 修平

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