質問力と回答力

 例えば自分の支払っている税金を安くする方法はないだろうか。老齢者に与えられる優遇措置にはどのような物があるだろうか。スーパーのある商品の次の安売りはいつから始められるだろうか。はたまた小さい会社が事務所を借りるのにどのような要件があるのだろうか。

 このような疑問についてはそれぞれ担当する人を探し、質問をしなければならない。そしてその質問のやり方によっては結論が違うこともしばしばだ。だが我々は質問技術について習ったことはない。

 学校での試験は全て答えるだけ。そのために勉強をする。答えるには与えられた命題があり、それは全て類型的であるので、少し勉強すれば答えを出すのは難しくはない。

 だが質問するとなるとその命題がない。漠然とした要求の中から命題を探し出すことから始め、相手が応えられるように的確に質問をしなければ相手も答えようがない。

 生活をしていく上が質問したいことは山ほどあり、答えることは少ない。「最近、お顔を見ませんね。どうされていましたか」という近所の人の質問に答えることは誰でもできる。

 だが反対に親しい近所の人の近況を知るにはそれ相応の技術がいるものだ。その人の何を知りたいのか。経済的な事なのか、健康上の問題か。最近の生活の状況か。先ず聞きたいことを探し出すことから始めなければならないし、あまり深く聞くと失礼であることもままある。

 そう、質問は答えることより10倍も難しいのだ。どこの会社でも解決しなければならない問題があるだろう。その時に経営顧問の人はどのように聞き込みを始めたら良いのか。人事の問題があって、収益が思っているほど上がらないのか。それとも商品に欠陥があり、顧客がその会社の商品を買うのを敬遠しているのか。資金不足なのか。

 この程度のことになってくると質問は非常に困難だ。相手が真実を話すのをためらうこともあるだろうし、回答の仕方が不足の時も多い。そうすると更に別の角度から質問を続けないと真相に到達しない。

 ある人がコンピューターに関する技術を極めて、それを元にした職業に就きたい。どうすれば良いのか。誰に聞けば良いのか。適切な人を探す技術は質問をする技術に裏打ちされていなければならない。

 質問の中には今最先端のコンピューター技術とはどういうものかという質問が含まれるだろう。ではどうすればその技術を伝授してくれる人を探すことができるのか。

 こういう場面では答えることは少なく、ほとんどが質問だ。何も分からないところから質問を初め、だんだんその質問の質を上げていかなければならない。そうしてついにそんなことを教えてくれるような人に巡りあったとしよう。

 そこからも質問の連続である。あることについてコンピューターを使って成し遂げるにはプログラム技術が必要だ。ではどのような方法でそのプログラムを始めたら良いか。教則本などあるのか。あるいは自分が作り上げていかなくてはならないのか。

 女性が何かについて悩んで、相談に乗って欲しいと言っている。それにはその女性にどこが悩みかを聞かなければならない。女性はそれに答えるだろう。だが、それは的を外れていることが多い。実際の悩みの根源は違うところにある。それを見極めるためにはさらに種々の質問をしてやらなければならない。

 生活の場では答えることは少なく、かつ簡単だ。だが美味しい生活をするには質問技術を駆使しなければならない。こんなことはどこでも教えてくれない。

 学校では単に大学の入学試験に答える技術を磨くだけだ。だからどんな良い大学を卒業しても仕事が全くできない人が大勢いる。というよりほとんどがそうだ。

 どこか質問技術を教えてくれる学校はないものだろうか。学校での勉強が大学入試に合格するだけのものであれば、それは社会の損失のように思う。学校で今まで教えたことに関して質問があるかと問われると質問する人はほとんどいない。そんなことには関心がないのだ。

 この間買ったLED電球がもう切れてしまった。原因はなんだろうかと頭の中で質問を考える。今月はガス代が少ない。何故なのだろうか。それが分かれば毎月ガス代の節約になるのだがと、自問自答する。そうだ、良質な質問をすると生活が豊かになり、仕事の能力がますのだ。

酒巻 修平

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