何故近い宗教は仲が悪いのか

キリスト教ではカトリックとプロテスタント、イスラム教ではスンニ派とシーア派、仏教では東本願寺と西本願寺。同じ宗教を奉じる団体やそれに所属する人が諍いを起こし、反目している。

 物資が極めて少なく、食料の確保も困難な時代に精神や心の安寧を考え、宗教を起こした創始者は偉大であるが、その後がいけない。

 イエス・キリストも裕福ではなかったし、イスラムを起こしたマホメット、仏教を創始したゴータマシッダールタも赤貧を実行した。彼らは精神の健康を奨励し、時の政府の攻撃にも争いを以て対応しなかった。

 彼らは極めて高い思想を持ち、魂の昇華を願ったがその継承者たちは徐々に創始者たる師の教えを離れていった。今あるキリスト教、イスラム教、仏教の姿は創始者の教えを守っているとは決して思えない。

 キリスト教ではメインの宗派の教皇が異端と称し、他派の人々を何十万人、何百万人と火あぶりにした。大伽藍を建設し、自分たちの権威のために動いている。

 仏教は衰退の道を歩んでいるが、戦国時代には大寺院が戦争に参加するまでになった。今は葬式屋の片棒を担いでいて、影響力はほぼない。

 イスラムは絶えず他派を攻撃し、世界各国でテロリズム遊びを行って、人を困難に陥れている。

 もう彼らは宗教家ではない。高邁な思想などある筈もなく、精神は荒廃している。宗教は人に有益な物だろうか、あるいは有害なものだろうか。

 食料さえもなかった時代には心の安らぎを与えたし、創始者たちは本当に人のために刻苦勉励した。キリストのように殉教した人もいる。

 だが同宗教、同派の結束は強固だ。その人たちは他派の人を攻撃するし、国家に向かって禍をなすオーム真理教のような団体も存在してしまう。

 人の心には二つの側面がある。強い精神力が一方で、他方は今にも壊れそうな弱いものだ。別の見方をすると赤貧に甘んじる心と権威を追い求める邪悪な精神だ。

 宗教は弱い心を救済し、赤貧の人たちを救おうとした。だがそれを目指した団体は巨大化し、そこには富や権力が生れた。文化遺産としてのゴシック大伽藍や東寺の五重塔は見事な建物だが、これらは同じ宗教を奉じるかあるいは赤貧の人たちの地と涙で成立したものだ。

 宗教は頭脳に働き掛ける文化だ。本来そこには物資というものが入り込む余地はなかったが、団体が大きくなればなるほど、時の政権に影響を及ぼし、却って人たちの精神を歪める。

 人は他の動物とは違い脳が極端に発達した。人以外の動物は子孫を残すためだけに生きているが、人は違う。脳を生きること以外に使い、体同様脳の健康をも祈念して脳自身のために脳を使用する。

 それが行き過ぎると権力、栄耀栄華を求め、時には残忍にさえなる。他派の人を焼き殺すなどは脳の誤った使用法だ。そういうことのないよう創始者は教導した筈だが後継者には人の心の弱い面が出て、創始者の思いを踏みにじってしまった。

 バチカンが所有しているような富も要らないし、イスラムの武器も不必要だ。金閣、銀閣の壮麗な寺を釈迦は夢想もしなかったろう。

 そういう意味では各宗派の創始者は自己の精神の高揚を求めるだけで、人々の心がどのように変化するかに思いが至らなかった。

 人の幸せとは物資の豊富さとは関係がない。心が豊かであることが幸せの源泉だが、より高次の間違った幸せを願う心が宗教の退廃を招いてしまった。

 バチカンのポープは市井に降りてきて赤貧の生活を1ヶ月でもやれば良い。イスラムの最高指導者は世界平和を祈念して核開発などの政治を放棄して、マホメットの教えに回帰してはどうか。

 日本の仏教は廃れてきたので、影響力は小さく、その意味では悪や害を垂れ流さないようになっている。好ましいことだ。

 考えが近い宗教は創始者の昔に立ち返り、せめて仲良くすればどうか。そうすれば人々を救うことができる。それができない宗教とは今や人に害悪を与える精神以外の何物でもない。

酒巻 修平

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